我慢ができなくなって蘭世に会いに行ったあの日から、すでに四年が経った。現在の冴は十六歳。季節は夏の終わり。スペインの夕刻はまだまだ明るく、じわりと汗の滲む日差しが部屋に差し込む中のこと。
「もう会いにくるな」
淡々とした声音とぴくりとも動かぬ表情を蘭世に向けて、冴はそう言い放った。滞在していたスペインにある冴の自宅の玄関先で、軽めのリュックサックと小ぶりなスーツケースを持った蘭世がきょとりと目を瞬かせる。つい先ほどまで穏やかに過ごしていたはずの相手からもたらされた拒絶の言葉を、まるで意に介した様子もなく瞬きをもう二回。
「ん。了解了解。凛に会いに行くのか?」
「ああ」
「そうか。じゃあもう会えないな」
寂しくなる。と蘭世もまた表情薄く呟いた。変わったところと言えば、わずかに八の字に下がった眉くらいだ。どうにも感情が希薄になってしまった冴と同じように、蘭世にもその影響が出てしまっている。もはや仕方のないことなのだけれども、表情が豊かであった頃の蘭世を記憶している以上、冴はそれが少し勿体ないと思ってしまうのである。
「俺に付き合わせて悪いな」
「いい、いい。俺だって不安だ。だからこれでいい」
蘭世はまるで気にしていないというように即答して、冴へと手を伸ばしてきた。冴はそれを避けることもなく受け入れる。そっと触れてくる手のぬくもりにほっと息を吐いて。この手の温かさが心底心地よいと思う。蘭世が生きている。そうわかる熱。これがしばらくそばから離れてしまうことが寂しいと思う。けれども、そうしなければならない。冴と蘭世がこの世界で生きるために、息をし続けるために、たとえ強制力が消えているかもしれないとしても、不安材料は極力減らすと、二人で決めたのだから。
「会いに行く。必ず。だから」
寂しさは降り積もる雪のようだった。しんしんと静かに、しかし強く主張するように心に溜まって消えてくれない。寂寥を疎ましく思う。冴は蘭世と離れてばかりだ。いつかのどこかで、ずっと一緒にいると、そう言ったはずなのに、いつまで経ってもその言葉を果たすことができないでいる。
おそらく、自分は悔しいのだろう。蘭世は何度だって冴に会いに来てくれたし、冴も蘭世に会いに行った。約束を何度もして、何度もそれを守ってきた。けれども、ただ純粋に願う『一緒にいたい』も『自分自身のサッカーをしたい』も、いつまでも叶わないままなのだ。
ああ、どうして。なぜこんなにも世界の理不尽に囚われなければならないのか。せめて、蘭世だけでも自由の中に居させてやりたいと、冴は思う。冴は初めから自由ではなかったから、自分のことなどどうでもよいと諦めてしまえる。だが蘭世はそうではない。蘭世は真実自由であった身を、冴のために不自由にしたのだ。だから、せめて蘭世だけでもと、冴は願わずにはいられなかった。
「──冴」
だが、そんな冴の心を見透かして、蘭世は冴の言葉を遮った。
己が心の裡とは裏腹な言葉を吐き出そうとしていた冴の言葉も、言葉にできないまま胸の奥に溜まっていく冴の感情も、すべて掬い上げるように蘭世は冴と目を合わせてくる。
「冴、冴、冴」
三度、蘭世はただ冴の名を呼んだ。それだけで蘭世が何を言いたいのか冴にはわかったけれど。蘭世もそれは理解しているだろうに言葉にするのである。
「大丈夫だ。大丈夫。冴はひとりにならない。ひとりにしない。俺は自由よりも不自由がいい。冴と一緒がいいから。何も心配いらない。冴の思うままにすればいい」
「……不自由なんていいもんじゃねぇだろ」
「うん。けど、ひとりの方が俺は嫌だ。冴がひとりなのも、俺がひとりなのも。絶対絶対嫌だから、俺を生かして死ぬくらいなら一緒に殺せ」
蘭世はきっぱりと言い切る。穏やかな声音には確かな決意が感じられた。決して譲らないと目が語る。そういうところがあの監獄のエゴイストらしいな、と冴は仄かに笑った。
「本当に物好きな奴だな」
呆れを含めて言えば、蘭世はすりと冴の頬を触れていた手で撫ぜて、少しばかり自慢げに胸を逸らすのだ。
「違う違う。俺はただ冴が大好きなだけだ」
「ふっ、そうか」
思わず笑い声をもらす冴を見て、蘭世はやはり嬉しそうに笑う。その笑みをずっと見ていたいと思ったが、冴は名残惜しい気持ちを隠して蘭世の手から逃れた。
「じゃあな」
「ん。また監獄で会おう」
おそらく双方が離れ難い気持ちを抱えながら、冴は蘭世を見送り、蘭世は冴に見送られた。
ぱたりと閉まった扉の向こうに消えた蘭世を、冴はいつまでも脳裏に焼きつけるように思い出していた。
