世界よ、どうか終わらせて2 - 7/7

 試合終了を知らせるホイッスル。スタジアムに轟く歓声。勝利の喜びに笑みを浮かべる選手と、敗北に呆然とする選手たちの姿。  声。声。声。声。  静寂など一瞬たりともないような喧騒の中で、その声は鋭く響いた。 「蘭世!!」  ばっと駆け出す人の影が、スタジアムを見下ろすような観客席の人々の目に入る。喜びと落胆に満ちた選手たちが顔を上げ、緊迫した声に顔を向けていた。しかしながら、声を上げた当人は、そんなものは目に入らぬとばかりにスタジアム脇、U-20日本代表側のベンチへと走っていく。  一体どうしたことか。平時にはありえぬ青年の姿に、誰もが困惑と疑念を抱いて走る人影を見つめ、次いで青年が向かう先を見遣った。  試合が終わってすぐ、ベンチに戻り水分補給をしようとしているのだろう人の姿がそこにある。後半戦から出場し、今なお走る青年──糸師冴とともに青い監獄勢を翻弄した無名選手。小柄な体躯に愛嬌のある顔立ちをした、けれどもどこか表情の乏しい青年。糸師冴の隣で親しげに言葉を交わし、その連携は目を見張るほど素晴らしいものだった。  そんな青年──黒名蘭世のそばには、帽子を被った一人の男が立っている。今し方黒名に声をかけたと思われるその男は、見慣れたスタジアムスタッフの服装をしていた。手には給水ボトル。帽子で顔は見えないが、黒名の表情を見るに、ただ単に水分補給を促すスタッフの姿である。  遠目に見るばかりの観客たちにはその程度のことしかわからなかった。だが、もう少し近場でその様子を見ることのできた選手たちは、一様に瞠目し、一部の者は顔を青ざめさせてわずかに動きを止めてしまった。  黒名のそばにいる男の異様さに気づき、かつ動けたのは、それに真っ先に気づいていたであろう冴だけだったのだ。 「蘭世!」  今一度、冴の口から切迫の声が上がる。瞬間、黒名の顔が強張った。男を見上げる黒名の目には驚愕とそしてなぜか諦観の色が浮かび、ただただ男の動きを目で追いかけるのみ。冴が辿り着くまであと数歩というところで、男の動きは止まった。反して、黒名は頽れるように膝をつく。  数拍の無音。選手たちから観客へと理解が追いつくまでの時間で、冴が男を突き飛ばし、黒名の隣に片膝をついた。そしてスタジアムを切り裂くような悲鳴が上がった。 「蘭世、蘭世っ」  何度も何度も、冴は黒名の名を呼んでいた。冴に突き飛ばされた男が、尻餅をつきながら笑っている。狂ったような笑いだった。合間合間に「これでやっと彼が完成した」「至宝に仲間など要らないんだ」といった風の言葉が落とされている。  なんということはない。男は熱狂的な糸師冴の信者ファンだった。たった一人でフィールドに立っているように見える姿に心酔し、孤独こそが糸師冴に相応しいと思っているような、厄介なファンだったのだ。男にとって冴の孤独は孤高とも呼べるほどに美しいもので。だからこそ、それを脅かすような存在は排除するべきであると、男は何の疑問もなく考えて実行してしまえるような、倫理観の狂った人間だった。  かくして、今回の試合で唐突に湧いて出た黒名蘭世という名の糸師冴の腰巾着に、男は理不尽にも憤り、試合内容など見向きもせずにスタッフに扮してスタジアムに入り込んだ末、黒名の腹部に刃物を突き立てたのである。  男と黒名の間には、凶器となった包丁が転がっていた。べっとりと血のついたそれを、黒名はちらと見遣って、傍らの青年を見上げたものだ。 「冴。大丈夫、だいじょうぶ」  呂律の怪しい声で、黒名は笑った。口の端から血が溢れるのも気にせず、腹部から流れる血がスタジアムの芝を汚すことにも目もくれず、ただ一心に冴を見つめていた。  堪らなくなったのは冴の方だ。震える両手を伸ばし、黒名の頬を包み込むようにして触れる。 「……らんぜ」  拙い言葉だった。そのたった一言で、黒名は冴の感情を余すことなく察するのである。  焼けるような痛みが緩やかに治まっていく。それがどういった理屈で起きているのかは黒名にもわからない。けれども、痛みが消えるということは、黒名と冴の繋がりがしっかりと存在していることだと、そう理解していたから、黒名は破顔した。 「さえ。なぁ冴。一緒に死ぬって、そう約束した。約束、破ったりしないから」  だから大丈夫、と黒名の声が冴の耳朶を打つ。冴はとうとうその目に涙を浮かべ、まるで絵画のように美しく泣きながら、また「らんぜ」と幼なげに黒名の名前を呼んだ。黒名を抱き締めるように手を彼の背中に回して、縋るように額を黒名のそれと合わせて、小さな声で言う。 「蘭世。俺と一緒に死んでくれ」  ざわり、とスタジアムに動揺の波が広がったことなど冴は気づきもしない。誰もが二人の雰囲気に呑み込まれて言葉も発せぬ中、黒名を刺した男だけが狂乱して叫んでいた。 「なぜ、なぜだ、どうしてそいつを選ぶんだ!!」  男の醜い嫉妬が言葉となって現れ出た。自分が自分だけが糸師冴をわかっているのだと、そう喚く男の狂気に選手一同が一瞬気圧されたが、冴と黒名だけは男など端から眼中にないとばかりの様子であった。  それがますます男の怒りを煽ったらしい。いっそ恋人同士と言ってもいい距離感で蹲る冴と黒名を引き剥がそうと男が立ち上がった。我に返り慌てて止めに入る選手たちを蹴散らし、乱暴な手つきで男は冴の肩を掴む。  力一杯後ろに引っ張られた冴の顔が男を振り返った。ようやくこちらを見たと、男の顔が優越に歪もうとして、途端に畏怖に塗り替えられる。 「──ひっ!」  男の情けない悲鳴も仕方がなかっただろう。振り返った冴の顔には欠片たりとも感情が浮かんでいなかったのだから。  精巧な人形のような不気味さで、冴は男を見ていた。その後ろで、引き剥がされたはずの黒名がじっと男を見据えている。まるで同じ顔が二つ並んでいるように思えて、男は恐怖に手を緩めた。  その隙を狙ったように、冴は男の手を叩き落とすと、また黒名を振り返って、今度は疲れ切った声で「蘭世」と名を呼んだ。 「蘭世。もう全部、辞めることにする。この世界もサッカーも……お前以外の全部」  その声に滲む、強い強い諦観と微かな安堵を感じ取ったのは、おそらく黒名以外にはいなかった。黒名が糸師冴であるからこそわかる彼の感情を、黒名は「そうか」の一言で受け入れた。  冴は黒名の手を取って祈るように握り締める。 「次も、その次も。あるかわからない明日なんざもう要らねぇ。だけど蘭世。お前だけは俺と一緒に死んでくれ。何度でも永遠に」  冴の手が血に濡れていた。黒名のものでない。黒名は決して自身の腹部に手を当てようなどとはしなかったからだ。冴に握られている手とは逆の手で、黒名は冴の手を握る。赤く彩られた手を隠すようにして、黒名は嬉しいと言わんばかりに笑った。 「──うん」  黒名の返答に、初めて冴が笑みを浮かべた瞬間、二人は力尽きたように地面へと倒れていった。寄り添うように倒れ込む二人に、悲鳴混じりの声で駆け寄る選手たち。けれども二人はぴくりとも動かないままだった。誰かが震える手で彼らの息を確認し、心臓の音を聞こうとしたが、結局徒労と化すだけで終わった。  後になってわかったことだが、腹部を刺された黒名と全く同じ位置に冴もまた刺し傷があったらしい。死因は二人揃っての出血死で、スタジアムにできた血溜まりは二人分だったそうだ。  男は当然、殺人罪で捕まったが、糸師冴の殺害に対しては容疑を強く否認していた。事件現場にいた選手たちへの聴取でも、一体いつ糸師冴が刺されたのか見た者は誰もいなかったという。  その後数十年、選手たちの心に深い傷を負わせた事件は、糸師冴の死因に関しての謎を残したまま、選手たちが生涯を全うする頃には世間の噂として消費されて忘れ去られていった。 ◇ 「蘭世」 「──会いたかった、冴」  どこかの世界で、サッカー選手にならなかった二人が、世界を旅する日常が始まっていたかもしれないが、それを知っているのは当人たちばかりである。