世界よ、どうか終わらせて2 - 6/7

「俺の憧れた兄ちゃんじゃない!」  吐き捨てたその瞬間、はっと目の前が開けたような心地がした。これまでずっと靄がかかっていたように不明瞭だった世界が、鮮明に輪郭を現し、見えていなかったものが明確な像を結んで見えるようになったような、そんな感覚。  糸師凛はこの日、己の『三周目』を悟った。  記憶通りならば、この後、凛は冴とサッカーで勝負をする。現実を見せてやると言った冴に呆気なく負けてしまう勝負だ。一周目も二周目も、凛にとってこの勝負は「初めて」のことだった。当然、経験値の差は大きく、今思えば負けが確定していた勝負である。けれども今回は。記憶を思い出した今回ならば。体力も何もかも、未熟で思うように動かない身体ではあるけれども、『三周目』だと自覚している今の自分なら、もしかしなくとも勝てるのではないか。凛の中にそんな考えが浮かんだ。  なぜなら、三周目に至るこれまで、冴には記憶を思い出した素振りが一度もなかったからだ。この忌まわしい雪の日の対決で冴が話した言葉は、凛の中で一言一句鮮明に思い出せるほど深く記憶に刻まれた出来事で。冴の紡いだ言葉が一周目も二周目も全く同じであったことは、凛の記憶が証明している。今回も、冴が凛の前に現れてからこれまで、冴は凛の記憶通りの言動をしていた。それこそ、呼吸のタイミングや、指先の角度まで寸分違わずと言ってもいいくらいだった。  だからきっと、冴は覚えていない。これまで凛が経験した一周目も二周目も、凛の中にだけ存在する記憶で、冴にはない経験なのだ。  そうであるならば、経験値の差で負けてしまったこの雪の中の対決を、凛の勝利で収めることは不可能でないはずだ。勝ってそして今度こそ、冴にストライカーとしての凛を見せつけ、かつて約束したように二人で世界一の夢を目指そうと、そう言いたい。一周目のかつてにぐちゃぐちゃに潰れ去った情緒の果てに、凛が見つけた小さな願望である。三周目を与えられるような幸運が自分に降り注いだのだから、そんな可愛らしい夢を叶えることくらい許されるに違いないと、凛はそう己の考えを肯定した。  故にこそ、凛の心の中を満たしたのは希望の光と、これから行われる対決への勝利の渇望だった。切実に心の底から、凛は勝利を欲し、己が願望を実現させるために、大人げなくも記憶にある未来の自分が習得する技術を発揮した。それはこれまでの三周にわたる凛の人生で最高のパフォーマンスであったことだろう。その自負が凛にはあったし、この薄闇の公園に観客が居たのならば歓声が揚がっていてもおかしくないプレーであったことは確実だった。  だが。だがである。 「俺の人生に凛、お前は要らない」  地に膝をついていたのは凛だった。すでに経験した記憶と変わらず、凛は勝負にあっさり負けた。冴は苦戦などしなかった。当然、凛が冴を追い詰めることもなかった。まるで世界がそう定めたかのように、記憶と同じ結果が凛の眼前に横たわっている。呆然と見上げた冴の表情に変化はなく、汗一つない。澄ました顔には一欠片の情も浮かんでいない。見下ろす男が冴の弟だということさえ幻かのような無関心。  糸師冴という男はこんなにも感情の見えぬ男だったか。  凛の脳裏に過った疑問は、答えを出す前に塗り潰された。代わりに浮かんだのは二周目の人生における予想外。一周目にはなかったはずの出来事。糸師冴の死。  なぜ。なぜ忘れていたのか。思い出したはずの先ほどに、なぜ思い出せなかったのか。あれほど強烈に自身の感情を揺さぶったはずの記憶をなぜ、凛は忘れていられたのか。  わからなかった。わからなかったけれども、今はまだ、目の前に冴がいる。凛に背を向け、公園の出口に向かっていようとも、その背はかすみのように消えることなく存在している。この三周目の世界で、冴は生きているのだ。  だから凛は、我慢ならず問いかけた。投げつけると言っても過言ではないほど勢いよく、強い語調で、離れていく冴に届くように。 「どうしてっ、どうしてあいつと一緒にいた!? 黒名はあんたの何だ!」  どうしてどうしてどうして。凛の頭の中をぐるぐると回るその疑問。  凛はただ知りたかった。一周目では何の接点もなかったはずの二人が、二周目でなぜ一緒にいたのか。だが、言ってから気づいた。  ああ、この世界は『三周目』だ。記憶のない冴に答えられるはずがない。  冴が立ち止まった。一拍置いて振り返るその動作が、凛には永遠にも思えるほど長く感じられた。振り向いた冴の瞳にはきっと訝しむような色が浮かんでいるだろう。凛を見る目は殊更に怪しげで、もしかすると眉間に皺を寄せているかもしれない。  凛はそんなふうに予想したけれど。先に無関心を体現した無表情を見ていたが故に、その顔に感情を浮かべる冴を見ることができるならばそれでいいとも思った。  しかしながら、振り向いた冴の表情は凛の予想など無意味とばかりに澄んでいた。怪訝な表情など欠片もなく、凛の問いに疑問を感じた様子もなく、明日の天気を答えるように平坦な声音でこう答えたのである。 「──俺の運命。唯一の人」  その瞬間の冴の瞳は、どこか満足気だった。このとき初めて凛が見た冴の感情は、決して凛に向けられたものではなかった。それがどうしようもなく悔しくて、凛は何も言えないまま歯を食い縛った。そんな凛の様子に気づくこともなく、冴はその短い言葉を置いたまま、他に言葉を付け足そうという風もない。未練もないままにまた背を向けて、雪空の下を歩き去った。  凛は。そんな冴の背を、姿が見えなくなるまで見送って、そこでようやく気づいた。  冴は、二周目のことを知っている、と。  そうでなければ、あり得るはずがない返答があった。黒名という名を、この時期の冴は名前すら知らないはずなのだ。それを聞き返すことなく、冴の記憶から該当する人物の姿を過不足なく思い浮かべ、凛の問いに答えてみせた。  ならばなぜ、冴は何も知らないように振る舞っているのか。冴もまた凛と同じように『三周目』ならば、どうしてその経験を利用しようとしないのだろう。  もう冴の姿などない公園の入り口を呆然と見つめながら、凛はそんな疑問を抱いた。 ◇  この世界は所謂『三周目』である。青い監獄にいる選手のうち、対U-20日本代表戦に参加した監獄生のほとんどが、時期は異なれども『三周目』の記憶を思い出していた。例外は数人いるが、それもまだ思い出すきっかけが訪れていないだけなのだろうということを、すでに記憶を思い出した面々は理解している。  このきっかけというものは、本当に人それぞれで、サッカーの試合で初めて勝った日に思い出したと言う者もいれば、青い監獄に足を踏み入れた瞬間に思い出したと言う者もいる。  どうやら己の中にあるサッカーに対する劇的な記憶──分岐点とも言えるであろう出来事に対面すると記憶を思い出す傾向にあるらしい。斯く言う潔世一も、自分の『三周目』を思い出したのは、蜂楽からもたらされたボールをそのまま吉良に向けて蹴り抜いた瞬間であった。  そこからの日々は早く、潔よりも前に記憶を思い出していた者や、後に思い出した者たちと情報共有をする日々。ストライカーとしてはライバル同士であり、試合で手を抜くこともなければ、三周分の記憶と経験を駆使して、一周目の頃など比較にもならぬほどの技術で青い監獄を昇り続けてきた。記憶のない面々を蹴落とすことに躊躇はない。思い出せていない方が悪いし、実力があるなら記憶の有無など関係なく勝てるはずだと、潔は心の底から思っていた。  けれどもどうしてか、記憶通りの試合結果や脱落者を伴って時間は過ぎていった。どれほど高度な技術を見せつけても、どれほど十代にあるまじき身体能力を見せても、過程は変われども結果は変わらなかった。  まるで、そうなるようにと世界が強制しているみたいだ。  潔はふと、そんなことを考えた。  馬鹿な話だと一蹴するには状況が揃い過ぎている。訊く者が皆、同じように結果は変わらなかったと答えるのだ。なぜそうなるのかを考えるのは当然の話だろう。  だが、進展がないまま日々が過ぎ、とうとう対U-20日本代表戦の発表が目前に迫ってきた頃。これまで、記憶を思い出しているという報告のみで他には何も語ることはないとばかりに口を閉ざしていた凛が、ぽつりと情報を落としたのだ。 「……兄貴には多分、記憶がある」  言われた瞬間、潔の身体に雷が落ちたような衝撃が襲った。今まで疑問にも思っていなかったようなことが、実のところ物語の核心を突くようなものだと気づいたときのような、そんな衝動だった。  はっとして周囲を見渡すも、目的の人物の姿はない。それどころか、今の時間帯ならほとんどの監獄生が食堂にいるはずなのに、当の蘭世だけが姿を見せていないのだ。  だって、おかしいだろう。と、潔は自答する。あの二周目の世界で、糸師冴が死に、黒名蘭世が死んだ。同じ時間の同じ場所、同じ死因で息絶えたのだ。  その記憶を、糸師冴は持っているのだという。おそらくは、という注釈が付いているけれども、凛の憶測でしかない言葉だけれども、確かに凛は糸師冴にこの三周目までの記憶があると言ったのだ。たとえ推論の域を出ないものだとしても、何の確証もなくそんなことを凛が言うとは思えなかった。  ならば蘭世はどうなのか。潔の疑問はそれに尽きた。  二周目の世界で、蘭世は糸師冴と何某かの関係があったのは明白だ。そうでなければあの事故が起きた日、二人が同じ場所にいた理由に説明がつかない。一周目には確実になかったはずの関わりが、あの二人にはあったのだ。  であるのならば、蘭世もまた三周目までの記憶を有しているのではないか。潔はそう思ったのである。  一周目の記憶が二周目の二人にはあり、だからこそ二周目の世界で彼らには関わりがあった。そう考えるのが妥当で。その推測が正しいのならば、三周目の現在、二人に記憶があるという結論になっても、誰も潔を責めはしないだろう。 「……なあ、蘭世は?」  潔がぽつりと周囲に問いかけると、他の面々も潔と同じ考えに思い至ったような表情をした。つい先ほどの潔と同じようにバッと周囲を見渡して、互いに視線を合わせては蘭世の姿を探していた。  そこに。 『黒名蘭世なら居ないよ』  そんな声が空から降ってきた。  正確には、施設内に設置されたスピーカーからの絵心甚八の声である。  どういうことだ、と食堂内の誰かが呟くと、それを拾ったらしい絵心がまた答えた。 『彼は糸師冴の要望により、U-20の日本代表に召集された。だから今頃、荷物でも取りに行ってるんじゃない?』  どこか投げやりな、それこそうんざりしたような声音だった。「は?」という声が上がるのは当然のことだったが、潔はそれどころではなかった。絵心の言葉が終わるかどうかというところで、すでに食堂の出口へと走り出していた。  蘭世には訊かなければならないことがある。今さっき浮かび上がった疑問でしかないそれを、今すぐにでも訊きに行かなければならない。  潔を動かしていたのはそんな感情だった。彼の頭の中ではひたすらに「なぜ」という言葉がぐるぐると回り、いっそ吐きそうになるほどの頭痛に襲われていた。それでも潔は形振り構わず走った。試合でもこれほど必死になったことがないというほど真剣に、蘭世の部屋に向かって。 「蘭世!!」  そうして見つけた蘭世は、すでに部屋を出て廊下を幾らか進んだところにいた。その隣には肩を並べるように立つ糸師冴の姿がある。 「──潔?」  振り返った蘭世が、足を止めて不思議そうに首を傾げる。肩で息をする潔の様子を見て、何をどうしてそんなにも慌てているのだろうというような様子を見せていたが、彼の顔にはこれといった感情は浮かんでいなかった。ほとんど無表情に等しい顔が、あたかも潔の様子を不思議に思っていますというように動作しているのだ。  潔はその事実にぞっとした。 「どうしたどうした? 何かあったのか?」  蘭世が彼らしい話し口調で問いかけてくる言葉。それは一周目でも二周目でも聞き慣れたそれであったというのに、潔は一瞬、声を出すことを躊躇ってしまった。  蘭世の隣でそっと寄り添うように佇む糸師冴の姿も、潔の心に湧いた恐れに似た気持ち悪さに拍車をかける。いっそ「何でもない」とでも言って踵を返してしまおうか、という臆病風に吹かれそうになったものの、潔は深呼吸一つで決意を固め直して蘭世の目をまっすぐに見た。 「蘭世。訊きたいことがあるんだ」 「訊きたいこと?」 「うん」  酷く重い口を精一杯動かして、潔はとうとうその言葉を口にした。 「なあ蘭世。蘭世にとって糸師冴はどういう存在なんだ?」  言ってから横目に見遣った糸師冴はやはり、ただ蘭世の隣に立っているだけだった。潔の脈絡もない問いかけに対する驚きもなければ、行く手を阻むような相手に対する苛立ちもない。それどころか、凛の証言では記憶があるはずの彼には、どこにも執着らしい執着が見えなかった。まるで初めて潔を見たというような無関心。それがどうしてか蘭世と似ていると、潔はそう思った。  蘭世は潔の質問にすぐには答えず、真っ先に糸師冴を見上げる。じっと傍らの男の顔を見つめて、ゆるりと見返してきた翠の瞳の奥を眺めているようでもあった。 「──心臓」  どれほどの沈黙だったか。一瞬だったはずのそれが、潔には酷く長く感じられた。そうしてもたらされた蘭世の言葉は、とてもわかりやすく、けれども根底にある意味を悟ることができないようなものだった。  潔の困惑を知らないまま、蘭世は一人、納得した様子で頷いている。ゆるりと細められた瞳が、柔らかな光を帯びて傍らの男を見上げていた。蘭世に返される糸師冴の目もまた、穏やかなものに満ちている。  それは一種の宗教画のような光景だった。潔を置き去りにして、この世界にはまるで蘭世と糸師冴の二人しかいないかのような雰囲気を醸し出している。  そんな状況に堪え兼ねて潔が口を開こうとしたとき、ようやく蘭世が潔の方へと視線を向けた。そしてどこか説明口調でこう告げた。 「俺の心臓いのち。もう一人の俺。俺が死ねば冴も死ぬし、冴が死ねば俺も死ぬ。それだけ、それだけだよ、潔」  言い切って、もう用事は済んだだろうとばかりに蘭世が踵を返す。糸師冴と共に小さくなっていく背中を、潔は呆然と見送った。  声をかけた時からずっと、蘭世の笑みが糸師冴にだけ向けられていたことに潔が気づいたのは、そのすぐ後のことだった。