世界よ、どうか終わらせて2 - 3/7

 目覚めはいつだって唐突だ。  はっと目が覚めるように自覚して、ある種の虚無感とともに現状を把握する。酷い落胆と無気力が、湧き上がるように小さな身体に襲いかかり、感情表現を放棄した表情筋は冷淡なまでの冷静さを醸し出す。  大丈夫? と駆け寄ってくる母の声に顔を上げ、自らの力だけで立ち上がれば、いつも通りの実家の庭が眼前に広がる。真白い膝小僧を汚す土を小さな手で払い、右隣に膝をついて顔を覗き込んでくる母にこくりと頷きを返した。  そうしてまた、糸師冴のもう一回ループが始まったのである。  けれども、そう遠くないかつてに感じたような絶望感はない。むしろ、自分の記憶にある限り最も平穏な心持ちで瞬きをし、冴はもう見慣れてしまった小さな両の手を見下ろした。  ああ、生きているな。不思議なことに、安堵とともにそう思った。  これまで目覚める度にひたひたと這い寄る絶望を払いのけてきたというのに、今回は身の内に沈む絶望が少しも波立たずに沈黙している。前回のように、糸師冴のこれまでの記憶と黒名蘭世の記憶、二人分を一気に思い出したけれども、意識を失うような無様を見せるには至らず、ただすっと身体に染みるような安心が冴を包んだ。  それもこれも、自分がひとりではないという確証と、蘭世が決して自分を裏切らないという確信が冴の中に定着したからだろう。  何より、約束をした。切っても切れない結びつきを作り出し、この先どれほどの繰り返しループが起きようとも、決して離れず解けないほど強い呪いのような関係を築いたというのに、蘭世はまるで小さな子どもの純真さで、無垢で柔らかな約束を冴へと贈った。  受け取ることを選んだのは冴自身の意思だ。果たそうと思う心も、間違いなく冴の感情だった。  ならば、それに恥じぬ行動をするのは当然のことであったし、早く「蘭世」と、彼の名を読んでやらねばとも思った。  彼が生まれるまであと二年。そこから繰り返しループを自覚するまでにもう四年。計六年の歳月がある。それはもはや冴にとっては瞬きのような時間でしかないけれども、蘭世を待つための時間としてはあまりにも長く感じられるものでもあった。  それだけ待っても、すぐに会いには行けないのだ。さらに十年以上待ってようやく、視線を交わす程度がやっとなほど、冴は世界に縛られている。今も、母に促されて家の中に向かいながら、その足は今にも家の外へと走り出しそうで。必死に押さえつけた結果、自分の手を引く母の手を握り締めてしまっている。そうしなければここに留まっていることすら困難な有様だった。  頭の中で警鐘が鳴り響きさえしなければ。一度目の記憶デジャヴが過りさえしなければ。もっとずっと早く自由に蘭世に会いに行き、かつて話したように一緒に互いのためのサッカーをできただろうに。そんな落胆と焦りに身を浸しながら、冴は母に促されるままに家の中に入り、そこでふと立ち止まった。 「冴?」  母が不思議そうに冴を振り返ったが、それどころではない。冴は視線を上下左右に動かして目を見開いた。一拍ののちに勢いよく庭を振り返って、なんで、と戸惑いがそのまま転がり落ちたように呟く。  だってそんなはずはない。これまでずっと、それこそもはや半身のように付き合いの長い現象だったのだ。それなのになぜ、頭の中で警鐘が鳴っていないのか。視界の隅にあったはずのシステム画面が跡形もなく消えているのか。  もしや。  そんな希望が冴の中で顔を出しかけたけれども、いやそんな希望に縋っては駄目だと頭を振った。  まさか本当に自由を手に入れただなんて。ありえるはずがないのだ。そうでなければ、頭の中に浮かんでは消えていく一度目の記憶デジャヴに説明がつかない。  とにかく、今の自分にできるのはただ待つことだけなのだ。あと数年、黒名蘭世が生まれてくるまで、大人しく待つことだけが冴にできる唯一のことだった。 「なんでもない」  と、母の呼びかけに答えて、冴はまた表情の欠けた真顔で、母の顔を見た。  そう? と少しばかり怪訝な様子を残しながらも冴の言葉を信じた母は、傷の手当てをしないと、と冴の手を引いてリビングまで向かった。  ソファーに座らされて、母が救急箱を持ってくるのを待つ間、冴の思考は前回までと今回との相違点イレギュラーで埋まっていた。一人ではどうにもできないという自覚もあったので、物語シナリオに影響を及ぼさない範囲でできるだけ早く蘭世に会いに行かなければとも思っていた。  けれども少しだけ、今度こそ十八歳の先を見られるのかもしれないなんて、馬鹿げた希望を目にしてしまったような気がして、冴は自嘲気味に息を吐く。  ただひたすらに、蘭世に会いたいと思った。 ◇  ぱちりと目を瞬くと、やはりサッカーボールを抱えていた。小さな手が自分自身のものだと理解してすぐ、頭の中に二つの記憶が一気に流れ込んできた。膨大な記憶の波に、今回は意識を手放すことなく耐えることができて、額に浮かんだ汗をふう、と幼い手で拭う。その拍子にボールが地面に落ちて跳ねたが、そんなことは今はどうでもいい。大事なのは、視界のどこにもシステム画面がなかったことと、警鐘が鳴る気配が少しもしないことだった。  年齢差故に先に目覚めた冴の記憶は、今回の分も含めてつい先ほど見たばかりで。おそらく蘭世が目覚めたことは、リアルタイムで冴にも届いていることだろう。  冴の戸惑いや焦り、縋りたくなるような希望への渇望も、蘭世は手に取るようにわかった。けれども、自由を得たかもしれないと思う一方で、何かの罠かもしれないと思う彼の心も、蘭世はよく理解していた。冴に伝わるようにゆっくりと「落ち着け、落ち着け」と心の中で唱えてみる。伝わったかどうかはわからないが、焦ってもどうにもならないということはすでにわかり切ったことだったから。  慎重に行動する。それだけが蘭世たちにできる自発的行動だったので、蘭世は物語シナリオ強制終了ゲームオーバーを告げない程度に抑えた行動を意識した。そうしていれば勝手に時間は進み、あっさり数年が経ち、やはり冴には会えぬまま小学校も四年目を終えようとしていた。 「蘭世」  不意に呼びかけられた声に振り返り、蘭世は驚くとともにふわりと笑みを浮かべる。  もうすぐ冬休みに差し掛かろうかという雪の日に、家に向かって通学路を一人で歩いていた蘭世の背後に冴は立っていた。  幼なげな顔立ちはまだ前髪を下ろしたままなのもあって、どことなく可愛らしく思える。ぱっつんの髪型が、無表情な彼のどこか冷たさを纏う翠の瞳の印象を和らげ、それがますます彼の元来の容貌の美しさを際立たせているように感じられた。 「冴」  蘭世は嬉しくて嬉しくて、万感の思いでその名を呼んだ。  会いに来てくれたのか。そう言葉にしようとも思ったけれども、そうする前に冴へと駆け出していた。  だって、冴が名前を呼んでくれたのだ。「蘭世」と、蘭世自身が前回願った通りに。一度目の記憶デジャヴに逆らい、警鐘を無視しなければできなかった行動を、他ならぬ蘭世のために為してくれた。それは望外と呼ぶに等しい歓喜を蘭世に与えたのだ。たとえ、今回の人生に世界シナリオの強制がないかもしれないという状況であったとしても、自分が死ぬ可能性を理解しながら、世界の求める物語よりも前に、冴が蘭世に会いに来てくれたことが嬉しかった。  走り出した勢いのまま、蘭世は冴の首元に腕を回した。ほとんど飛びつくような行動だったにも拘らず、冴は危なげなく蘭世を受け止めた。それどころか、身長差故に爪先立ちになるほど限界まで背伸びをする蘭世に気づくと、文句も言わずに身を屈め、片手を蘭世の背に回して体を支えてくれる。 「……蘭世」  そして今一度、冴は蘭世の名を呼んだ。そこにどんな思いが込められているのか、蘭世は正しく理解する。積もり積もった感情が上手く形を成さずに冴の胸の内で留まっていることも、本当は言葉にしたくて堪らないのに、どうしようもなくできそうになくて口惜しく思っていることも、蘭世はわかっていた。だから。 「会いたかった、会いたかった。冴、会いに来てくれてありがとう」  蘭世は冴の分まで感情を言葉にしたのである。