世界よ、どうか終わらせて2 - 1/7

 早朝。蘭世はまだ日の昇らない時間帯に家を出て、電車に揺られて新千歳空港に来ていた。空港に着いた頃にようやく空が明るくなり始めていて、朝だなぁ、と蘭世は太陽の眩しさに目を細めた。 「おい」  そこに、コツリ、と小さな足音とともに声がかかった。振り向けば、蘭世のすぐそばに男が立っている。 「久しぶり、久しぶり」 「何が久しぶりだ。先週会ったばかりだろうが」  男の姿を認めて、蘭世は破顔した。それはまるで、遠距離恋愛をしていた最愛の恋人と数年ぶりに再会したときのような表情だったけれども、蘭世に声をかけた男は恋人などではない。むしろほとんど初対面と言っても過言ではない程である。  出場ゲートから出てきたはずの男は、旅行者や出張でやってきた会社員が持つようなキャリーケースを持っていない。それどころか、シンプルな白いシャツと黒いスラックスを身につけ、おそらくは財布やパスポートなどの最低限の荷物しか入っていないだろう小さめのボディバックを斜めがけにしている。いかにも近くに買い物にでも来ましたというような出立ちだった。 「気分気分。それくらい会いたかったってこと」  そんな場違いさを気に留めることなく、蘭世は冗談めかして言った。すると男は呆れたようにため息を吐く。「酷い」とわざとらしく嘆いてみれば、ふん、と鼻で笑われた。 「もしかして、糸師冴は嬉しくない?」 「……別に」  そうは言ってねぇだろ。と、男──糸師冴がその言葉を音にすることはなかったけれども、蘭世は正確に読み取って、また笑みを浮かべた。 「そっかそっか。ならいいや」  蘭世は鼻歌混じりに言って歩き出す。じゃあ行こうか、なんて言葉もなく歩き出した蘭世の後ろを、一歩遅れて糸師冴が着いてきた。  今いる場所が北海道である以上、道内に住んでいる蘭世が案内役を担うのは当然のことではあるのだけれど。日本の至宝とまで呼ばれ、誰かに付き従うということを絶対にしないとまで噂される糸師冴が、蘭世の後ろを着いて歩いているという事実が少しだけ面白かった。 「なに笑ってやがる」 「何でもない、何でもない」  勿論、『何でもない』なんてことはなかった。 「そうかよ」  と、返答しながらも、どこか不満げな表情をする彼の顔を見て、どうして「何でもない」などと思えようか。世間一般の人間と比べれば乏しすぎるとはいえ、糸師冴にしてはわかりやすく感情を表に出しているのだ。それだけで驚愕に値する事態である。何より他でもない『糸師冴』が、感情を顔に滲ませていることが蘭世は嬉しくて仕方がなかった。  蘭世が思わず、ふふ、と笑い声を立てると、途端に怪訝な顔を向けられたが、少しも気にならなかった。むしろそんな表情もまた、蘭世に喜びをもたらすものになるばかりだったのだ。  だって蘭世は知っていたので。糸師冴がその身に抱く感情が、まるですっかり消え去ってしまったように希薄になっていることを。  端から感情など持ち合わせていない人形のような無表情で、硝子のように透明で無機質な瞳を鈍く濁らせていく様を、蘭世は一つ前の世界で見てしまっている。三周目として目覚めた今回では、まるで自分自身が『糸師冴』であるかのように錯覚するほど鮮明に、彼の記憶と感情を見てしまっている。世界が繰り返されるたびに薄れていく感情の波。失われていく情熱。それでもなおサッカーを愛し続けようとする狂気。そのすべてを蘭世は知っていた。  意図せず記憶を共有したが故に、糸師冴に釣られたのか、蘭世自身の感情もどこか薄まってしまったように思えるけれど。おそらくそれは糸師冴側にも起こっていることなのだ。蘭世が糸師冴の記憶によって感情というものを著しく失ってしまったように、糸師冴もまた、蘭世の記憶によって失ったはずの感情をわずかばかり取り戻したのだろう。  そうでなければ説明がつかない。一つ前の世界で、糸師冴は死にゆくその瞬間まで、感情の波を荒立たせることなどほとんどなかったのだから。それこそ、身を覆うような絶望と、蘭世との会話で溢れさせた怒りと困惑、少しの安堵以外では、あの世界で糸師冴は何も感じていなかった。  それほど平坦で無機質で、人形そのものになってしまったかのように、心が壊れ始めていた糸師冴が、蘭世の隣で微かとはいえ感情を表に出している。それを嬉しく思わないわけがない。  何より、糸師冴の隣にいると驚くほど安心するのだ。彼の隣にいることが至極当然のことのように。むしろ離れている方が異常なのだと思えるほどに。  きっとそれは糸師冴も同じなのだ。だって今、糸師冴はここにいる。  おおよそ一週間前、対U-20日本代表戦が終わった後、誰にもバレぬように糸師冴に会いに行った蘭世を待っていた彼と交わした新しい約束。今回の世界で迎えにいくという約束を守った蘭世が、今度は北海道で会おうと一方的に言っただけのそれ。  糸師冴が蘭世をどうとも思っていなければ無視されていて当然のものを、彼は律儀に守ってここにいる。それが糸師冴も蘭世と話したいと、共に居たいという証明でなければいったい何だというのか。  言葉にしなくても、無言のまま歩き続けている今も、蘭世は糸師冴のことを疑うことはないし、糸師冴も蘭世を疑わないと確信している。手に取るように彼の考えがわかるし、逆も然りなのだ。  感情を共有し、記憶を共有するとはそういうことで。蘭世と糸師冴が同一存在だと世界に認識されるとはこういうことなのだ、とすんなり理解してしまう。  おそらくは、今のこの蘭世の思考も糸師冴には筒抜けなのだろう。けれどもそこに不快感はなくて。不満げだった糸師冴が、呆れたように息を吐いて口を開いた時も、蘭世はそこから紡がれる言葉を、音になる前から知っていたような感覚で糸師冴へと視線を向けた。 「お前、会ったばかりの割には俺のことが好きだな」 「うん。同じだからとかは関係ない。ただただ、あんたのことが好きだ」  狂ってしまえるほどにサッカーを愛し続けられる情熱が羨ましいと思う。サッカーだけで自分の世界を構成してしまえる排他的な思考には一種の尊敬を覚えるし、生き方の中心にしているサッカーが全く違う他人を愛していると気づいた瞬間、絶望して壊れてしまえる一途さがどうしようもなく好ましいと思った。  自分にもそんなふうに思える何かが欲しいと思って。そんなエゴは一生持ち得ないだろうとも思った。けれども、蘭世だってサッカーを愛している。それだけは相手の目をまっすぐに見て言える事実なのだ。愛を返してほしいと思った糸師冴と、初めから愛されることを期待していなかった蘭世。違いは明確だけれども、サッカーを愛しているということだけは共通していて。サッカーのために自分自身が壊れてもいいと思えてしまうほどの覚悟を持っていたというところが、自分たちは似ていた。  サッカーをしたいという思いだけで世界の繰り返しループに耐えてきた糸師冴の覚悟と、糸師冴の壊れていくサッカーを見たくないという思いだけで彼の死の半分を引き受けた蘭世の覚悟、それはどれほど似ているのだろう。  もしかしたら全く似ていないのかもしれない。けれども、蘭世はそれでいいと思う。似ていても似ていなくても、事実として蘭世の隣に糸師冴がいて、糸師冴の隣に蘭世がいるならそれでいい。  糸師冴が望み、蘭世が願うように、何にも縛られず自分が満足できるような自由なサッカーができるなら、それでいいと、そう思うのだ。  だから今回の人生で、どれほどの自由が許されているかはわからないけれども、一度目の記憶デジャヴに関わらない物語シナリオの外側で、二人しかいないけれども思う存分サッカーをしようと、蘭世は糸師冴に言おうとした。彼を見上げて、薄まってしまった感情が嘘のように破顔して、自分を見下ろす糸師冴の、少しばかり期待の篭った、微かに煌めく硝子のような翡翠に応えるように、「一緒にサッカーをしよう」と言おうとしたのだ。  ──パシャッ。  けれども、そんな音が蘭世の言葉を遮った。その瞬間、蘭世は脳裏を過った嫌な予感に口を閉ざさざるを得なくなった。  自分の体内でさっと血の気が引く音を聞いた。見つめていた糸師冴の顔も、瞬く間に青ざめていく。信じたくないような、幻聴であってくれと祈るような心地で音の出処を視線だけで探ると、空港を出たばかりの蘭世たちがいる道路の向かい側で、スマホを構える男の姿があった。  はっ、と吐息をもらしたのはどちらだったのか。耳に痛いほどの静寂の中にその音は響いた。  早朝の空港。運航している便もまだそう多くない時間帯の空港前は、しんとした静けさの中にある。人通りも少なく、また蘭世はことさら人の視線に気を遣って道を選んできた。だからこそ、世間的にも事実的にも面識のほとんどない糸師冴と二人で歩いている姿を、人々に目撃されていなかったのだ。  しかし、それは瓦解した。  先ほど聞こえてきた音は紛れもなくカメラのシャッター音だ。スマホを構えていた男の姿からも、その音が蘭世たちを撮るためのものだったことは明白である。  目的を果たした男が顔を隠しながら走り去っていく姿を、蘭世は呆然と見送った。きっと男は特大のスクープを手にした満足感でほくそ笑んでいるだろう。  ああ、終わってしまった。こんなにもあっけなく、自分たちの努力を嘲笑うように。  蘭世は無性に落ち込んで、ひたひたと這い寄る絶望感を足蹴にしてやることもできなかった。  今世の死が確定したことが怖いわけではなかった。自分の選択を後悔したわけでもなかった。ただ一向にやってこない胸の痛みに、蘭世は焦燥感に駆られたのだ。  どうして。  前回はあんなにも苦しくて痛かったのに。それでも糸師冴をひとりきりで死なせなくて済む安堵に満たされていたのに。なぜ今はその痛みがやってこないのか。  もしかしたら、自分はまた蚊帳の外にされてしまうのだろうか。これまでの膨大な繰り返しループの中、気づかぬままに人生を過ごしていた頃のように。糸師冴にばかり負担を強いて、犠牲を押しつけて、のうのうと生きる逆行という名の記憶の忘却二周目が始まってしまうのだろうか。  それは、それだけは嫌だ。糸師冴をひとりになんてしたくない。そんなことをしてしまったら、今度こそ糸師冴は膨大な繰り返しループの記憶に押し潰され、身の内に澱みのように溜まった絶望に呑み込まれてしまう。彼の抱える絶望の一欠片でもいいから、そんな思いで三周目を始めたというのに、四周目が叶わないなら何の意味もないではないか。  だからどうか、糸師冴だけを殺さないでくれ。殺すのなら、自分も一緒に殺してくれ。お願いだからあの身を焼くような痛みをくれと、蘭世は誰に向ければいいのかもわからないまま懇願した。 「──黒名」  俯いて歯を食い縛るばかりの蘭世へと落とされた声。のろのろと顔を上げれば、当然そこにいるのは糸師冴だ。逃れようもない死を目前にした彼は、蘭世の有様をどう捉えるのだろうか。裏切りだと思うだろうか。それとも、もうすでに絶望を受け入れてしまったのだろうか。  どんな表情も見たくないと思いながらも、「黒名」と静謐さを含んだ呼び声を無視することはできず、蘭世はとうとうその顔を見た。 「……っ」  途端、蘭世は込み上げてくる涙を堪え切れず、嗚咽をもらした。  糸師冴は蘭世をひたと見つめていたのだ。ただ静かに、何もかもを受け入れるように。けれども蘭世が危惧した絶望を抱いた様子はなく、ひたすらに穏やかで寂しげな瞳をしていた。 「いとし、さえ」 「泣くな。悲しいことなんてねぇ。お前が泣くようなこともだ」 「でも、でも、俺はここで死にたかった。死にたかったのに……」  あんたと一緒に死んでやりたかったのにどうして。と蘭世は両手で顔を覆った。  はらはらと落ちていく涙を両の手で受け止めながら、泣くな、と蘭世は胸中で叱責して嗚咽を堪えた。泣く資格など自分にはない。本当に泣きたいのは糸師冴のはずで、自分ではない。だから泣くな。情けない様をこれ以上糸師冴の前に晒すな。お願いだから止まってくれ、と蘭世は何度も自分自身に願った。  それでも、どうしても涙は止まらなかった。その間も、糸師冴はずっと蘭世を呼んでいて。急かすわけでも咎めるわけでもなく、ただ穏やかな呼びかけが蘭世の耳朶をふわりと掠めていくのだ。  その呼び声を無視し続けることなど到底できず、蘭世は零れ落ちる涙をそのままに、そっと顔を上げた。  おそらく、あの男が走り去ってから五分も経っていない。だが、たかが五分、されど五分である。  数多あまた繰り返しループによって自己の感情コントロールが崩壊し、本来抱くはずのあらゆる感情に鈍くなってしまった糸師冴にとって、顔色というのはすこぶる希薄となった最たるものだ。その顔色が血の気が引いて青くなってから五分、未だ戻る気配がない。 「大丈夫だ、黒名」  糸師冴はそう言ったけれども、いったい何が大丈夫なのだろうか。彼をひとりにしないと言っておきながら、証明し続けることができなかった蘭世を慰めようとでもしているのだろうか。  いや、そんなはずはない。今もなお、なんとなくわかってしまう糸師冴の考えが、それをきっぱり否定している。 「そんなわけない。ないだろ、糸師冴」 「いいやある。大丈夫なんだよ。お前に死ぬ覚悟があるなら絶対に」  糸師冴の言いたいことが一向にわからなかった。けれども、青い顔をしながらどこまでも確信し切った声音で告げる彼の言葉は、自然と受け入れられてしまう。  糸師冴が大丈夫だと言うのなら、その言葉を信じてもいいのだろうか。蘭世を安心させるためだけの口先だけの言葉じゃないと信じていいのだろうか。  ふと、そんな疑心が蘭世の脳裏を過って。しかしすぐさま否定する。  馬鹿なことを考えるな。このことで彼が嘘をつくはずがない。蘭世の荒唐無稽な証明を、糸師冴は示す前から信じてくれたではないか。その彼を、蘭世自身が信じなくてどうする。 「わかった、わかった。俺はあんたを信じる」  そう言って、それでも少しだけ不安が拭えなくて、蘭世は糸師冴の袖口を小さく握った。当然気づいた彼はそれを見遣ったけれども、指摘してくることはなかった。ただ、言葉の代わりに蘭世の手を包むように握ってくれた。その手の温かさに蘭世はほっと息を吐いて。そして、糸師冴の手が微かに震えていることに気づく。  糸師冴から感じられる感情の起伏はあまりにも薄く、淡く、そよ風にすら吹き飛ばされてしまいそうなほど儚かった。けれども、そのわずかな感情の揺れが、彼の抱いている不安を蘭世に告げる。  たった一度、知ってしまった『二人きり』を失うことへの不安。ひとりは嫌だと訴えてくるような嗚咽を噛み殺すような声。  もしかすると、蘭世がこの繰り返しループ現象に加わったことは間違いだったのかもしれない。そう思えるほど歪で幼い執着心という名の依存が、糸師冴の中に存在していた。  だが、それと同程度の感情を蘭世が抱いていることも事実だった。結局のところ自分たちは、ひとりでこの世界シナリオに縛られることが嫌なのだ。自由に思う存分サッカーをできないことが苦しいのだ。似たもの同士で手を取り合い、傷の舐め合いのように生きることでしか、もう平穏を望めないのだろう。  本当に馬鹿げている、と蘭世は思ったけれども、もうそれでいいとも思った。傷の舐め合いでも何でもいい。ただ糸師冴という男と一緒にいたいと心の底から思う。糸師冴も蘭世と一緒にいたいとそう思ってくれていたら嬉しいとも。  彼に対して抱く感情は、いつのまにやら二転三転して歪んで混ざって、初めに抱いたそれから掛け離れたものになってしまったように感じるけれど。蘭世はそれを迷わず信頼と呼ぶ。友情だと言ってしまえる。  存外自分も歪んでしまったなぁ、と蘭世は頭の片隅に残った冷静な部分で自嘲しながら、糸師冴の一挙手一投足に注視していた。 「──来たぞ」  だからこそ、その呟きはよくよく蘭世の鼓膜に浸透するように届いた。  顔を上げて見えた、糸師冴の視線の先を追うように振り返れば、二車線の道路を斜めに走ってくる車の影。遠く全貌の見えない大きさが、ぐんぐん近づいて。まっすぐ蘭世と糸師冴に向かってくるそれが、速度違反も甚だしいトラックなのだと気づいたときには、もう避ける余地すらなかった。  けれども、蘭世に焦りはなかった。このとき、蘭世の心に湧いたのは純粋なくらいの安堵だった。  糸師冴をひとりにしなくて済むという安心感。彼が大丈夫だと言った真意。気づいてしまえば、向かってくる死に対する、糸師冴をひとりにしてしまうという恐怖心など一欠片もなくなった。糸師冴から感じられる感情の起伏にも恐怖というものはなく、こんなところまで似なくてもいいのになぁ、と存外強固な結びつきに感心した。  今回がなぜ、原因不明の吐血という雑な殺し方ではなかったのかは疑問に思うけれども、これから先、糸師冴と蘭世の間にできた結びつきが解かれることはないのだと確信して、ほっと息を吐く。  それから、蘭世は目前まで迫るトラックから視線を逸らし、糸師冴を見上げてふわりと笑った。 「名前。名前。あんたのこと、冴って呼んでもいいか? 許してくれるなら次に会うときは、俺のことも名前で呼んでほしい」  その言葉を言い終えたところで、身体に言葉にできないほど強烈な衝撃が走り、蘭世の意識はぷつりと途絶えた。 「ああ。約束する」  最後の最後、そんな声が聞こえてきたので、蘭世は不安など一つも感じずに目を閉じることができた。