世界よ、どうか終わらせて - 1/4

 黒名蘭世は逆行者である。  前世──物語などでは所謂一周目と呼ばれる一度目の生では、プロサッカー選手だった。高校生の頃、青い監獄ブルーロックプロジェクトに参加し、その縁でドイツのサッカーチームに所属。二十七歳までサッカー漬けの毎日を過ごし、引退した後は日本の小さなサッカークラブチームのコーチをしていた。一時は日本代表に選ばれたこともある、立派な青い監獄産のエゴイスト。サッカー選手ではなくなった後も、サッカーから離れられなかった筋金入りのサッカー馬鹿。死ぬ瞬間までサッカーに魅入られていたような気がするけれども、どういうわけか自分がどんな最期を迎えたのかだけは思い出せないでいる。  ただ、プツリと途切れている一周目の記憶の後、目が覚めるように二周目を自覚した。  おそらくは初めてサッカーというスポーツに触れた瞬間。ぱちりと瞬いた視界の目の前、小さな手が随分と大きく感じられるサッカーボールを抱えていて。  蘭世はそうして二周目を悟ったのだ。  そこからは何ということもない。一周目と同じように、蘭世はひたすらにサッカーを愛した。ストライカーとしての適性値よりもずっと高い適性を知っていたけれども、やっぱり自分で決めるゴールが気持ちよくて。そこらに溢れている下手なストライカーよりもずっと、ゴールへの執着が強くて。何より、一周目の人生で世界最高峰のストライカーたちを見てきた蘭世には、日本の平等至上主義チームワークに潰されてしまっているストライカーにパスを出すような慈悲など持ち合わせていなかった。だからこそ、パスを出してもいいと思えるようなストライカーがいないのならと、自分でゴールを目指し、シュートをして、得点を稼いでいれば、いつの間にやら一周目と同じFWとしての地位をチーム内で確立していた。  このままFWとしてプロサッカー選手になるのもいいかな、なんて思ったことは一度や二度じゃない。蘭世には一周目の記憶というアドバンテージがある。一周目では諦めた夢に手が届くかもしれないと、胸に火を灯す微かな希望に縋りかけたことだって、ないとは口が裂けても言えない。けれども、きっとそれは掴んではいけない希望なのだと、蘭世は正しく理解していた。  この現象はおそらく、そんな単純なものじゃない、と。蘭世のためのボーナスステージなどではないのだと、脳裏で警鐘を鳴らすので。蘭世は素直にこの逆行なる現象を享受することができなかった。  その危機感とも呼ぶべき嫌な予感が確信に変わったのは、一周目の人生で蘭世の運命を大きく変えることとなった一通の手紙と同じものを、二周目でも受け取ったとき。  この時期、もしかすると、などという生優しい予感ではなく、必ず来るという一種の絶望感とともに毎日覗いていた郵便受けに、日本フットボール連合JFUからの強化指定選手選出の手紙を見つけた瞬間、ああやっぱり、と蘭世は落胆した。  嫌な予感が最悪の形をして蘭世の前に現れたのだ。  予兆はあった。  例えば、サッカーボールに初めて触った瞬間に思い出した一周目の記憶。  例えば、見覚えしかない人々の言動と一周目をなぞるように時間が進んでいく世界。  例えば、蘭世のサッカー人生に関わるだろう大小を問わない分岐点で生じる一周目の記憶の想起デジャヴ。  例えば、時折幻視する視界の隅に現れる一周目にはなかったシステム画面。  それらすべてを気のせいだとして片付けてしまうのは簡単だったけれど。蘭世は蘭世の性格上、それを気のせいだとか夢幻の類いであるだとか、そんなふうに見ない振りなどできなかった。それに、蘭世が巻き込まれている、この逆行という不可思議な状況に身を置いていて、どうして疑問を疑問のままにしていられようか。  誰がいったい何のためにどうやって。そんなことは欠片もわからなかったが、とかくこの世界が蘭世を主役にした都合のいい世界ではないということだけは確かだった。そうでなければ、JFUからの手紙──青い監獄への招待状を手に取った瞬間に脳裏を過った、潔世一を主とした、かつての世界でサッカー界に名を馳せた同年代の少年たちの姿に説明がつかない。  慎重にならなければ。そう思った。  自分が逆行していると悟らせてはいけないと。この現象を起こした誰か何かの意図がわからないうちから、好き勝手な行動をしては自分の首を絞めるだけになってしまうだろうと。  慎重に慎重を重ねて、周囲を疑り深く観察して。そうして参加した青い監獄には、溢れるほどの逆行者がいた。  蘭世のようにかなりしっかり記憶のある者。一周目の特定の時期のみの記憶しか持たぬ者。夢を見た後のように朧げな記憶を持つ者。逆行しているという自覚がないまま二周目を過ごしている者。驚くほど多彩に、青い監獄内は逆行者と呼ばれるべき人間が集っていた。  こんなことは何某かの存在の思惑がなければ起こり得ないことだと、蘭世が確信した瞬間でもある。  ますます自分が逆行者であると気づかれてはいけない状況であることを悟り、蘭世は緊張からくる冷や汗を、何でもない顔をして拭うのに苦労した。  こんな状況だというのに、なぜ彼らは自己のエゴを曝してサッカーへの勝利を渇望するのか。蘭世には到底理解できなかった。  現状、自由意思が守られているとはいえ、いつその自由も奪われてしまうかわからないというのに。いつ、この状況を生み出した存在に都合のいい操り人形にされるかわからないというのに。悠長に世界一のストライカーを目指していられるような余裕が、彼らにはあるというのだろうか。それとも、おそらくはこの世界の主役やライバルキャラに相当する地位を持つ彼らにとっての不都合こそ、世界自身が取り除くとでも思っているのだろうか。  いや、もしかすると、自分に都合の悪い状況や存在など力尽くで捩じ伏せてやるという無謀があるのかもしれない。むしろ、そちらの方がしっくりときて、蘭世はため息を吐きたくなった。  一周目の人生と照らし合わせれば、彼らはこれから先、世界を舞台に戦い続ける英雄エゴイストたちだ。一度は力で他者を捩じ伏せ踏み台にし、頂点を掴むために走り続けた者たちである。二周目の人生が始まったところで、その生き方を容易に変えたりなどしないだろう。むしろ二周目だからこそ、一周目でできなかったことをやろうとするだろうし、一周目では届き得なかった高みに手を伸ばすはずだ。  蘭世ですら一度は伸ばしかけたのだ。生粋のエゴイストたちがやらないわけがない。彼らのエゴの前にはすべての事象が跪くべきだと、他ならぬ彼ら自身が無意識に考えていてもおかしくないくらいなのだから。  そういうところが蘭世には足りなかったのだろうと、今になって思う。何を犠牲にしてでも、どうしたって越えられそうにない壁を粉々に壊してでも前に進もうとする覚悟エゴが、蘭世には足りなかったのだ。一周目の人生で、蘭世を世界の舞台から弾き出し、世界一のストライカーどころかサッカーの高みへ登る機会すら失わせたのは、他の誰でもなく蘭世自身だった。  今こそ他の何を押してでも、自分自身のために手を伸ばすべきではなかろうか。あの憧れた眩い世界に手を伸ばし、理性が抑えつけてきた、あの頃には足りなかったエゴを獲得して曝け出す時ではないのか。エゴを剥き出しにする彼らを見ていると、そんな考えが湧いてくる。けれども、やはり蘭世は手を伸ばすことができなかった。  他のあらゆるすべてを切り捨てて、誰かの犠牲の上に成り立つ世界一。それはスポーツの世界だけでなく、どんな世界でも真剣勝負であれば必ず見ることになる景色ではあったけれど。その犠牲が、間接的にでも誰かの選手生命や将来を奪うものになってしまうのだと脳内で警鐘が鳴っているのを無視して、そんなことよりも自分が大事だと言えるほど、蘭世は自己愛エゴに浸れる人間ではなかったのである。  いいや、たとえばこれが一周目の人生の延長線上での煩悶だったとすれば、話は違ったかもしれない。蘭世はこれほど悩むこともなく、世界一という光に手を伸ばしたに違いない。けれども、今の人生は紛れもなく二周目で。自分の死んだ瞬間こそ思い出せないでいるが、途切れてしまっている記憶がまざまざと自分の死を伝えている。もしかしたら、なんて希望も抱けないほど明確に、死という最期を蘭世に突きつけてくるのだ。  結局、蘭世は二周目の世界でもエゴイストとしてはわずかに、しかし決定的に足りないエゴを抱えて青い監獄を過ごすしかなかった。他の逆行者たちが、自覚の有無や記憶の明瞭度の高低に関係なく、自分自身のためにフィールドを駆ける中、蘭世だけが自分が逆行者であることを誰にも悟られないようにと息を潜めた。他の皆が跳ね除けているだろう、脳裏に過る一周目の記憶デジャヴを受け入れ、寸分違わずなぞり、青い監獄の試練を進んでいく。逆行者の大多数が一周目にはなかった実力を発揮し、それに引き摺られるように非逆行者たちも覚醒の先を突き進んでいく中、蘭世だけが一周目と変わらない。  実力も立ち回りも、青い監獄を生き抜くには十分なものだったとはいえ、監獄全体を見渡している絵心甚八には物足りないと断ぜられても仕方のない姿だった。実際、蘭世は監獄内で一人になったときに、スピーカー越しの絵心に声をかけられている。  お前のエゴはそんなものか。  絵心は蘭世にそう言った。蘭世が身の内に抱えているエゴの全貌を知っているような口振りで。もしくは、監獄で起き続けている化学反応から一歩引いたところにいる蘭世を焚きつけるように。  その声音に期待と失望の二つを同時に感じ取れてしまったからこそ、蘭世はただ誤魔化すように笑って返した。それで精一杯だったのだ。  なぜなら、この二周目と呼ぶべき人生で誰に何を言われたとしても、蘭世は自分の選択を変える気がなかったからである。  得体の知れない逆行の原因。青い監獄に集う逆行者たち。たびたび脳裏を過る一周目の記憶。もはや幻視だと言い切れなくなってきた、定着しつつある視界の隅のシステム画面。  これほどの未解明事項があってなお、自由を謳うことなどできるものか。蘭世は、いっそ苛立たしげにため息を吐いた絵心に、そう吐き捨ててやりたかった。そんなことは絶対にできないけれど。  だって、と思う。だってそうしてしまったら、絵心に蘭世が逆行者であることがバレてしまうかもしれない。絵心自身は非逆行者であるようだけれども、彼が聡すぎるほどに聡く鋭い慧眼を持つ男だと知っていたので。  何より包み隠さず言えば、蘭世は怖かった。この意味のわからない状況に置かれていること自体が。この現象を成した存在ものの意図も思惑も未だ何一つわからないことが。いつ自分の自由意思が奪われてしまうのだろうかと考え続け、警戒し続ける精神的疲労。いっそ何も考えていないようにさえ思える数々の逆行者たちの目立った行動すべてが。一周目とは違う何もかもが、恐ろしく思えて仕方がなかった。  二周目を悟ってからずっと、脳内で鳴り響き続けている警鐘が衰えることはなく、むしろ年々酷くなるばかり。青い監獄に足を踏み入れてからは警告音が耳障りなほど轟き始めて、蘭世は睡眠もままならない状態だった。それをひた隠しにし、平然とした顔で試練を乗り越えていくことで感じる苦痛は、同じ状況にある者以外にはわからないだろう。そしておそらく、この世界で蘭世と同じ状況になる可能性があったはずの者たちは、悉くが自らのエゴによって不都合を叩き潰し、前に進んでいく者たちであった。きっと脳内の警鐘など早々に壊して沈黙させたに違いない。警鐘を捨て去ることも壊すこともできず、だからといって無視もできないでいる蘭世こそが異端だったのだ。  いっそ弱音を吐けばよかったのかもしれない。同じ逆行者同士、自然と集まる形になっている彼らの輪に飛び込んで、涙のひとつでも浮かべて「助けてほしい」とでも言えば、何かが変わったのかもしれない。でも、そうしてしまえば、蘭世はたちまち英雄エゴイストたちの枠組みから外され、一周目でそうだったように、二度と彼らとサッカーをすることは叶わなくなるだろう。  それは嫌だな、と思った。思ってしまった。中途半端な矜持エゴを大事に抱えて、いざというときに助けを呼べぬような臆病者が蘭世という人間だったのだ。  ならば蘭世にできることは、何食わぬ顔をして一周目のような言動で己の現状を包み隠し、不調を悟らせず、提示される一周目の記憶デジャヴとクエスト染みてきたシステム画面を受け入れることだけだった。  満足に自分の望むサッカーもできず、ただ一周目の自分の人生をなぞり続けることほど退屈なものはない。自分の誇りエゴが錆びついていくのがひしひしと感じられた。そうまでしても全く姿を見せないこの現象の原因に、焦燥が募った。常々感じている恐怖が日に日に増していく感覚。何度思い出そうとしても思い出せない、一周目の自分の最期。  怖かった。ただひたすらに怖かった。絵心がU-20日本代表と対戦することになったと告げた時も。スターティングメンバーの選抜時も。糸師冴の参戦や、士道龍聖の引き抜きを知らされた時も。自分の覚えている記憶が不完全であることに、蘭世は酷く恐怖していた。  表面上は取り繕えていたことを奇跡だと思うくらいには、蘭世は止まらず進んでいく二周目の世界に怯えていて。思い出そうとするたびに途切れる場所が変わっている気しかしない、一周目の自分の最期に怯えていて。この逆行をもたらした存在が望むような結末を迎えられなければ、また新たな三周目が始まるのではないかと。そんなことになったら耐えられそうにないと。  三周目があるなら四周目も五周目も、それ以上もあるかもしれない。誰か何かの意思で成された逆行だ。その得体の知れない存在が満足するまで、この状況から逃げられないことだってあり得るのである。  だからこそ、蘭世は怯えずにはいられなかった。  そうして蘭世が自分の考えに押し潰されそうになりながら悶々と日々を過ごしているうちに、U-20日本代表対ブルーロック戦が始まった。入場してくる二十二人の選手たちを、蘭世はベンチからぼんやりと眺めた。もはや何をする気力も湧いてこないような不調の極みにあった蘭世にとって、一周目では特に活躍の機会もなかったこの勝負は、ある種の休息のようなものだった。これ幸いと現実から目を背けるようにフィールドを見つめて。表面上は真剣な顔でチームメイトという名の青い監獄生たちを応援して。数々の化学反応と覚醒、一進一退の攻防を感慨もなく眺め続けて。  はた、と気づいた。  気づいた瞬間、蘭世は息を呑んだ。ちょうどそのとき、糸師凛が兄の糸師冴からボールを奪い取ったところだったけれども、蘭世が目を見張ったのはそれが理由ではなかった。  そも、一周目でも同じように凛は糸師冴からボールを奪うことに成功している。たとえ凛の技術力が一周目とは比べ物にならないほど上達していようとも、今さら驚くようなことではない。凛は逆行者なのだから、技術がプロ並みでもおかしくはないし、一周目でできたことが二周目でできぬ道理もない。エゴイストというのは皆、そういうものだからだ。  蘭世が驚き、思わずベンチから立ち上がってしまいそうになったのは、偏に、糸師冴が浮かべた表情──凛にボールを奪われた瞬間にわずかに丸くなった目。それであった。  凛の観客を沸かす見事なプレーでも、また、糸師冴の、逆行者である凛をして全力以上のプレーでようやくボールを奪えるほどの、並外れた先読みの技術とボールコントロールに驚嘆したわけでもない。  一周目でも見たことがある、糸師冴の驚きの顔。開かれた目の奥、瞳の輝きが、蘭世の記憶と全く違っていたのだ。  だから蘭世は息を呑み、同時に気づいてしまった事実に顔を顰めることとなった。傍目には、凛のプレーを見て先を越されてしまったと、悔しさを覚えているような表情に見えたことだろう。ベンチにいた他の面々も似たような表情をしていたので、どうにか立ち上がることを抑えた蘭世が、その空間で浮くような事態にはならなかった。  すとんと、これまで抱き続けてきた恐怖と怯えが、納得という形に変化して蘭世の胸の奥に落ちてきた。  ああやっぱり予想は正しかった。蘭世は泣きそうな心地でそう思った。  これは蘭世のためのボーナスステージではなく、別の誰かのための物語世界なのだと、答えが出てしまったことが苦しかった。そして、もしかしたらという憶測でしかなかった、物語を成り立たせるための犠牲者逆行という現象を成した存在の都合のいい操り人形が、すでに出ていたことにも気づいてしまって。自分や他の逆行者たちが、どれほど彼の邪魔になったのだろうかと想像して、頭を抱えたくなった。  実際、蘭世は脳内で鳴り響き続けている警鐘による慢性的な頭痛に苛まれていたので、常に顔色は若干悪かったし、このときばかりは額に手を添えてもいた。  けれども、気づけてよかったとも思って蘭世は顔を上げる。フィールドに立つ糸師冴を、今度は自分の意思でしっかりと見つめた。蘭世がそうであったように、糸師冴もまた、他者に己が現状を悟らせぬようにと振る舞っているようだった。  蘭世などよりもずっと苦しい状況に強制的に置かれているのだろうに、それでもなお、糸師冴のサッカーは美しい。これほど美しいサッカーをする彼が、ボールを蹴るたび、フィールドを駆け上がるたび、パスを出すたび、絶望を塗り重ねるように瞳を鈍らせていくのを、蘭世はもう見たくなかった。心底サッカーを愛しているだろうその心が、擦り減り削られ、磨耗していく様など、見たくはなかった。  精一杯のSOSはあまりにもか細く、今にも切れてしまいそうな糸のようだったから。蘭世は、自分だって擦り減り削られ、心を壊してしまいそうだったのに。サッカーをすることも、フィールドに立つことも、もう嫌だと叫んでしまいたいような気持ちで二周目を過ごしていたのに。ないはずの正義感が生まれてしまった。  それほど、糸師冴のサッカーは美しく、そして痛々しかった。  だから、試合終了のホイッスルとともに決着がつき、一周目とは異なる得点で青い監獄側の勝利となった瞬間、蘭世は立ち上がった。同じように、ベンチの面々も喜びとともに立ち上がっていたけれども、他とは違い、蘭世のそれは酷く静かだった。  湧き上がる歓声と、まさかという驚きによる騒めき。悔しそうなU-20日本代表選手たち。飛び跳ねるように勝利を讃える青い監獄生。  そして。  背を向け、フィールドを去っていく糸師冴の姿を認めて、蘭世もまた早々に、ロッカールームから青い監獄内へと向かったのだった。