ぱちり、と瞬くと、蘭世はサッカーボールを抱えていた。五角形と六角形の白黒で構成された何の変哲もないサッカーボール。だというのに、身体に対して随分と大きく感じられるそれ。
いや違う。ボールが大きいのではない。自分が小さいのだ。
紅葉のような可愛らしい手が、サッカーボールを大事そうに抱えていて。見下ろした地面との距離が、つい数瞬前までの記憶と比べるまでもなく、明らかに近い。縮んでいる。というよりもこれは。
「もどった、もどった……」
舌足らずの声が小さく音を鳴らして。その瞬間、蘭世は自身の三周目を自覚した。
とはいえ、現状四歳児の身体では何もできない。ひとりで外を出歩くことも難しい状況で、一つ前の世界で糸師冴と交わした約束を果たすことなど、まず不可能だ。同じ道内に住んでいるのならば話は違っただろうが、現時点での糸師冴と蘭世には、同じ日本国内在住という程度の共通点しかなかった。蘭世の住む北海道と糸師冴がいる神奈川県は海を挟んでいる上、隣接県でもない。大人でも移動は簡単ではないのだから、四歳児でしかない蘭世が糸師冴に会いにいくのは無理がありすぎた。
とかく今は、ただ平穏に四歳児の生活をする以外にできることはない。
そんなふうに結論づけた蘭世は、抱えていたサッカーボールを地面に下ろし、さて遊ぶか、とボールを蹴ろうとした。
「──うぇっ」
したのだけれども、それは成功しなかった。
蹴り損ねたボールの上に倒れ込むように膝をつき、蘭世はボールの上を見事に滑って横転した。どさっ、と無防備に投げ出された体は、土の上に着地するとともに打撲の痛みを訴えてきていたけれど。それに構っている余裕はなかった。
「蘭世!」
庭先で遊ぶ息子を見守っていた母が、慌てて駆け寄ってくるのが見える。体を起こして大丈夫だと笑いかけなければ。そうしなければますます母に心配をかけてしまう。
けれども、蘭世は立ち上がれなかった。
横転時の怪我は軽い打撲と擦り傷程度で軽傷なのに。母が血相変えて寄ってくるほどの重傷など負っていないのに。どうしても立ち上がれない。
強烈な眩暈と吐き気が、そのとき、蘭世の身に降りかかっていたのだ。世界はありえないほどぐるぐると回り、歪み、目の前が無数の光で点滅しているように見えた。平衡感覚を失い、浮遊感と垂直落下を繰り返す感覚に顔が青ざめていくのが感じられる。
ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる。
回り、歪み続ける視界と光の点滅の中で、何かが見えたような気がした瞬間。
「うぇっ」
「蘭世!!」
蘭世は横たわったまま嘔吐し、自分を呼ぶ母の叫び声とともに気絶した。
それから蘭世は夢を見た。意識が深く沈むような長い夢だった。一度だけ、己を呼ばふ母の声が微かに届いたけれども、それは縒り合わさった糸が解けるように遠ざかって消えて、蘭世を覚醒させるには至らなかった。むしろ、母の声から逃げるように蘭世の意識は深く深く潜っていき、それに伴って夢はより鮮明な輪郭を象った。
始まりは見覚えのあるもので。FWとして青い監獄に招集され、ドイツに渡り、プロサッカー選手を経験して二十七歳で引退。日本でサッカーチームのコーチとして過ごした日々。体が衰え動けなくなるまでサッカーに関わり生きて、結婚して子どもができて孫の顔を見て、大往生と言える程度には長生きをして寿命で死ぬ夢。人生の最期の瞬間、自身の一生を思い出して満足だと笑ったのに、どこか寂しさを覚えたままに眠るように死んだ記憶。
そして、繰り返すように同じ人生を何度も夢に見た。けれども、始まりの夢以外はいっそ笑えてくるほど短い人生だった。高校生になったばかりで暗転する夢。地区大会の予選日に暗転する夢。青い監獄の招待状が届いた日に暗転する夢。青い監獄内で幾度も暗転し、時にはサッカーボールを初めて手に持った日に暗転する夢を見た。
何十、何百、何千回も繰り返し夢を見た。そのすべてで蘭世は『黒名蘭世』という人間だったし、生きる時代も両親も周囲の環境も自らの意思で選び進む人生も、何もかもが全く一緒だった。たった一つ、人生の最期と呼ぶべき瞬間だけが異なる夢を、狂ってしまいそうなほど長く長く見続けた。年数に換算すれば一千年や二千年では利かないほどの年月。蘭世は『黒名蘭世』の夢を見ていた。そして最後に、ついさっき四歳児の体で目が覚める寸前までいた世界──蘭世にとっては二周目だった一つ前の人生で生きて死ぬまでを夢に見て、蘭世はそれらの夢が、これまで自分が繰り返した人生の記憶なのだと理解した。
その瞬間、今度は別の記憶が蘭世の体に一気に押し寄せた。
それは明確な死のある記憶だった。蘭世の繰り返された人生が、最初と最後を除いてすべて暗転で終えた人生であるのに対して、それはひたすらに死ぬ記憶だった。
平和に往生したのは蘭世と同じように初めの一つだけで、それ以降は理不尽なほどあっさり死んでいく。車に轢かれて死に、崖から転落して死に、土砂に巻き込まれて死に、月を背に鮮やかなネオンを目に映しながら落下して死に、人に刺されて死に、殴られて死に、病を患い苦しみながら死んだ。
思いつく限りのありとあらゆる死に方をして、とうとう雑に吐血して死んだ瞬間、蘭世はそれが夢の中だと理解しながら激昂し、明確な言葉にできないほど荒れた暴言を吐いた。
あまりにも酷いと思った。こんな理不尽をたった一人に負わせるなんて、この世界はなんて惨いのだと。何度も暗転する世界を、これがお前の覚えていなかった記憶だと、夢に見せられ突きつけられても、蘭世はこれほどの怒りを覚えなかったけれど。これは駄目だと思った。
糸師冴。彼の何千回、もしくは何万かもしれない数えることすら億劫になるほどの繰り返しの記憶を、蘭世はまるで自分の記憶のように夢に見た。糸師冴が感じた気持ちも痛みも喜びも悲しみも怒りも寂寥も絶望も、何もかもがまるで自分が感じたもののように思えた。
おそらくそれは、蘭世が糸師冴の血を体に取り込み、世界そのものを騙して糸師冴と同じ存在になろうとしたからこそ起こってしまった世界のバグのようなものだった。
すべての繰り返しの記憶を保持する人間は、本来一人しかいなくて。それに選ばれたのが糸師冴だったのに、蘭世はそこに入り込もうとした。だが規定以上の人数は許可されないことなどわかっていたから、蘭世は糸師冴と同一存在になろうとした。それは賭けに等しいものだったが成功し、蘭世は三周目を始めることができた。しかしながら無理を押し通したが故に、蘭世が糸師冴の血を飲んだその瞬間から、世界にとって蘭世は『黒名蘭世』であり『糸師冴』になったのだ。
糸師冴ならすべての記憶があるはずで。糸師冴ならすべての感情を知っているはずで。糸師冴なら。
それが当然だとする考えが蘭世に向けられた。蘭世はこの世界にとっては糸師冴でもあったから、これまで糸師冴が繰り返した世界における黒名蘭世としての記憶だけでなく、糸師冴の記憶さえも引き継いでしまったのだ。
そしてそれは、糸師冴の方でも起きてしまっている事象なのだろう。
そこまで考えついて、蘭世はようやく夢から目覚めた。
ふかふかのマットレスと暖かな掛け布団に包まれて。心配げな顔をした母が、目覚めたばかりの蘭世の顔を覗き込んでほっと息をつくのを眺めて。ああ、面倒をかけてしまったな。と、母ではなく、ここにはいない糸師冴を思ってため息を吐いた。
「大丈夫?」
母が声をかけてくれて。蘭世はそれが無性に嬉しく思えたのだけれども、開いた口からは掠れ切った声しか出なかった。
「うん」
たった一言そう告げただけで咳き込む蘭世を、母は「無理しないで」とこれ以上話さなくていいとばかりに頭を撫でた。ゆるりと頭を撫でてくれる手の感触は、遠い昔に覚えのある母の手と全く同じものだった。だが、蘭世の脳裏に過るのは母との思い出ではなく、糸師冴の記憶として見た一つ前の世界でのこと。意識のない自分に手を伸ばし、ただ手を置くようにそっと頭を撫でてくれた彼の手。自分の記憶ではなく糸師冴の記憶として見たからか、頭を撫でられたというよりも、頭を撫でたという感覚が強いけれども、蘭世はその時のことが忘れられなかった。
いつか、自分の意識がはっきりしているときに、あんなふうに頭を撫でてほしいな、とそんな小さな願いを抱いて蘭世は再び目を閉じ、今度は夢など見ないほど平穏で自然な睡魔に身を任せた。
「黒名は悔しくねぇの?」
「ん?」
スプーンで掬ったばかりのカレーライスを頬張って、蘭世は顔を上げた。
夕食の時間帯となった青い監獄内の食堂で、各々がテーブルにつき食事を楽しむ中でのことだった。御影玲王を連れてくると言う千切豹馬と別れて食堂へ来ていた蘭世は、あとから来る二人分の席を確保して先に食事を始めていた。
U-20日本代表との試合が決まってから、食事の制限が撤廃されている青い監獄内では、何を食べようかと悩む人の声がよく聞こえてきていた。そんな中で、蘭世は悩むこともなくカレーライスを選択すると、行儀良く「いただきます」をしてスプーンを手に取った。ちょうどその時、御影を連れてやってきた千切が合流したのだ。
千切は食事を始めようとしている蘭世を見ると、遅れてなるものかとばかりに二人分の夕食を即決し、蘭世が取っていた席に御影を誘導して「待たせたな」と笑った。自分の意見など訊かれずに用意された鯖の味噌煮を前にして、御影が冒頭の一言を放ったのがつい先ほどのこと。
「何が?」
口の中のカレーを咀嚼して飲み込んだ後、蘭世は小首を傾げて問い返した。質問に質問で返された御影は、箸を手に取ることもせずに蘭世の目をまっすぐに見て答える。
「スタメンに選ばれなかったことだよ」
「だけど、補欠には入ったぞ?」
「はぁ? じゃあそれで満足だって言うのかよ。試合にも出れねぇのに、出場選手枠に入っただけで諦められんの?」
御影は蘭世の答えが気に入らなかったらしい。若干声を荒げて責めるような言葉を吐いてきた。けれども蘭世は、再度こてりと、さっきとは逆方向に首を傾げるだけだった。
蘭世にとって、対U-20日本代表戦はそれほど執着するような試合ではなかった。
もはや数えるのも億劫なほど膨大な回数を記録する周回の記憶の中で、対U-20日本代表戦にまで辿り着けた記憶は数度しかなく、無事試合が開始され、終了するまで続いた世界を数えれば、片手の指二本で事足りてしまう。つまり、あと数日もすれば試合当日になる今回が無事に試合終了まで辿り着くことができれば、晴れて三回目を記録することになるのである。そして、蘭世が重要視するのは自身がその試合に出られるかどうかではなく、試合自体が無事に終了できるかどうかの方だった。そも、一度目の記憶では試合に出なかった蘭世が、今回試合に出ることになる方が問題なのだ。悔しい、悔しくないといったことが、欠片も蘭世の頭に浮かばないのも仕方がない。
けれども、そんな蘭世の内心を知らない御影は、きょとんとするばかりの蘭世の姿がどうにも気に食わないようだった。
補足すると、御影は未だ非逆行者側の人間である。その精神年齢は当然の如く年相応で、また、彼が「俺の宝物」と言って憚らない凪誠士郎との確執は解消されていない。つまるところ、情緒不安定なのだ。
とにかく自分の考えが正しいのか正しくないのかすら判断できぬ有様の御影は、この時期はよく他者に質問をしては、泣いたり怒ったりと忙しなかった。蘭世にとってそれは見慣れ切ったものだったわけで。彼の語調の鋭さに驚くような新鮮さを、蘭世は持ち合わせていなかった。
だからこそ自然に出た「どうして?」という態度が、御影の怒りの導火線に火を点けるなどとは思いもせず、蘭世は思うままの言葉を返した。
「それはそんなに重要なことじゃないと思う」
「は?」
「もちろん俺だってサッカーをしたい。でも、もう変えられもしないことに拘っても、サッカーはできないから。そんなことで立ち止まってるくらいなら、俺はひとりでサッカーをする」
ただただ、サッカーがしたい。蘭世はぽつりと呟くように零した。ふと顔を上げると、御影は口を噤んでいて、蚊帳の外に置かれてしまった千切は気不味げな顔をしていた。
自分が言ったことを思い返した蘭世は、この時期の自分らしくなかったな、と反省して誤魔化しの笑みを浮かべた。
「大丈夫大丈夫。きっとお前は試合に出られる」
だって、一度目の記憶の中で、御影玲王はフィールド上に立っていた。これまでの記憶からも、それは変わらない事実だったから、蘭世は確信を持って言えた。けれども、言ってから逆行者たちにバレたらやばいな、と考え直して、冗談めかした声で「多分だけど」と付け加えた。
そんな一幕がありつつも、対U-20日本代表戦は無事に当日を迎えた。前回と変わらず、糸師冴の参戦は絵心より伝えられていて。また糸師冴はこれまでのすべての記憶と変わらず士道龍聖を引き抜いていた。蘭世に接触してくる気配はなく、蘭世も糸師冴に自分の存在を仄めかしたりすることもなかった。
すべては試合の後。一つ前の世界でそうだったように、誰もいない世界の外側で、蘭世は糸師冴に会いに行くつもりだった。第三者がいては、たちまち強制終了されてしまうだろうから。ここぞというときこそ慎重にならねばと、蘭世は気合いを入れ直した。
◇
冴にとってはもう何度目になるのかもわからない実家の庭先での目覚め。ボールを追いかけ転んだその瞬間、一歳児の糸師冴の中に流れる膨大な記憶。もはや慣れすぎて、物語にありがちな高熱を出して寝込むなどといったことは起こらず、冴はすんとした真顔で立ち上がった。
膝も手のひらも転けたことで土に汚れ、打ち身による痛みを訴えてきていたけれど。冴はそんな痛みなどまるでないように目を見開いた。
何百、何千回。もしかすると万に届くかもしれないほどの繰り返しを経験してきた。そのすべてで死に、そして一歳の同じ日に目覚め、これまで繰り返してきた世界の記憶を余すところなく思い出す。それは冴の意思に関係なく起きる事象であり、これまで一度として変化したことがなかったものでもある。
それが、今回は少しだけ違った。物量で圧死させようとしているのかと問い質したいほど膨大な糸師冴としての記憶と、もう一つ。同じくらい膨大な、黒名蘭世の記憶が流れ込んできたのだ。
それはすなわち、黒名蘭世が糸師冴と同一存在だと世界が認識した証だった。そうでなければ、目覚めとともに、まるで初めから自分のものだったかのように、黒名の記憶を思い出すわけがないのだ。
驚いた。確かに一つ前の人生で、冴は一度くらいなら黒名を信じてもいいと思ったけれども、まさか本当に世界を騙し切ることができるなんて、想像もしていなかった。
命懸けの全力で、自らの言葉に嘘はないと証明してみせた黒名の、その心意気が嬉しかっただけなのだ。これまで当然のようにひとりきりだった自分に手を差し伸べて、それだけではなく、ある種強引に手を取ってひとりにはしないと示してくれた彼の、そういうところが好ましいと思ったから、冴はその気持ちだけ持っていこうと思っただけだった。
それが、まさか本当に有言実行されるなど考えもしなかったし、想定してもいなかったので、冴はただ純粋にその事実に驚いて。同時に、もしかしたら、などと考えてしまった。
もしかしたら、あの最後の約束を黒名は果たしてくれるのかもしれない、と。
そうなったらどれほどいいだろうか。冴はその瞬間、そうであれと、心の底から望んだ。有言実行してみせた黒名が、あの約束を破らず冴の前に現れたなら、限界を超えてしまったような心の底に溜まる絶望に呑み込まれずに済むのだと、ようやく確信した。
サッカーに絶望しないでいられる。それがどれほど奇跡的なことか、おそらく冴と黒名以外にはわからない。
冴は気が狂うほどに繰り返された人生で、もはや希望など持ち得る余地もないほど壊れ、バラバラになった心を無理やり繋ぎ合わせてここに居て。黒名もまた、たった一度の二周目で、聡すぎるほどに聡く察しが良かったが故に至った結論から限界を迎えようとしていて。絶望という深い穴の縁に片手でぶら下がっているような状況だったのだ。
今にも絶望へと落ちようとしている自分たちにしか、サッカーを失わずに済む安堵は理解できないのだ。
何より、サッカーは冴のすべてだった。サッカーは冴の愛であり、恋であり、人生そのものであり、心臓にも等しい存在だった。サッカーに絶望するということは、自身が生きる上で最も必要なものを失うということと同義だった。
心臓を失い、感情ごと生きる意味を失い、空っぽになった冴を、世界は都合のいい駒として扱うだろう。
そんなことはもう随分と昔から承知していたことで。冴は今回で全部諦めようと思っていた。一つ前の人生で、黒名蘭世が冴の前に現れなければ、冴はサッカーに絶望し、その絶望にすべてを奪われ、空っぽの人形に成り果てていたはずなのだから。
今ですら、冴の中に残る感情は希薄で、むしろなくなってしまっているのではと思うくらいなのだ。じっと胸に手を当てて鼓動に耳を傾け、そうしてようやく感じられるサッカーへのわずかに残った情熱が、黒名と交わした約束が、この理不尽な世界で生きる意味を冴に与えていた。
だから本当は、今すぐにでも黒名に会いに行きたかった。世界から押し付けられた役割などすべて放り出して、自らの足で、自分の意思で、物語に背を向けて走り出したかった。
けれども、途端に鳴り響く脳内の警鐘と、目の前に表示されたシステム画面が、冴の行動を阻んだ。
その瞬間、冴を襲ったのはぞっとするほどの恐怖だった。何度も繰り返した最期が脳裏を駆け巡り、痛みや苦しみを思い出させる。それはもう随分と昔に受け入れてしまった諦観の一部であり、受け入れてからこれまで、恐怖など感じたこともなかったはずのものだった。
想起されるその苦しみが、痛みが、今回ばかりはどうしようもなく怖いと思った。無意識に震え出した身体を抱き締めるように蹲り、ぎゅっと目を閉じる。庭で遊んでいたはずの冴が、庭で転けた後から様子がおかしいことに気づいた両親の声が聞こえてきていたけれども、それに応える余裕はなかった。
警告音が脳内を反響する。目の前で指示を出すばかりのシステム画面は無機質で、その指示に呼応するように過る一度目の記憶が、怖かった。
逆らえば殺される。死んでしまう。終わってしまう。この世界が、黒名蘭世が糸師冴を覚えている世界が、壊れて消えてしまう。
全力のサッカーが許されないこの世界で、ひとりはもう嫌なのに。
臆病者と非難されても仕方がないような有様だ。自分はこんなにも弱かっただろうか。もっとずっと強くて他者に左右されない確固たるものを持っていた気がするのに、もうそれがどんな形をしていたのかも思い出せない。ただただ、世界の望むままに振る舞うことしかできないのだ。
そうすれば黒名は冴に会いにくるだろう。会って何がしたいというわけではなかったけれども、無性に黒名に会いたいと思った。今すぐ黒名に会ってサッカーがしたいと、そう思って。脳内で反響する警告音に脳が揺さぶられる感覚に耐えきれず、とうとう冴は意識を暗闇へと落としてしまった。
意識を失ってしまった一歳の頃から時は瞬くように過ぎた。あの後、目覚めてすぐは、突然気絶した冴を心配する両親の姿はあったものの、それ以降は特別なことは何もなく、これまでの繰り返しと同じように時間が進んだ。これといった苦戦もないまま青い監獄が始まった時、冴はこの滞りない時間の流れを可能にしたのが黒名だと確信した。黒名にとって初めての二周目だった前回と、周回を察した上での今回だけが、記憶にあるどの周回地点よりも苦労なく青い監獄プロジェクトにまで辿り着いたので。
もはや顔見知り以上の関係性であるのではないかと錯覚するくらいには見た、ホテルでのインタビューを担当する記者と顔を合わせて、冴は一度目の記憶通りに答えを返した。あとはよろしくマネージャーと、さっさとインタビューを切り上げるところまで一言一句変わらない。部屋を出てホテルの廊下を歩いていれば、追いついたマネージャーことジローランが、無意味だと知っているだろうに苦言を呈してくる。見慣れに見慣れたやり取りを、ぼんやりしていても間違わない程度には繰り返してきた。
このとき冴の頭の中にあったのは、もうすぐ黒名が約束を果たしにくる、という思いだけだった。ホテルの大広間で、青い監獄プロジェクトについての記者会見が行われている様子を見た時も。すらすらと口から出てくる、今この場で必要な言葉をほとんど無意識に音にしている時も。それこそ、少しばかり興をそそられたような顔で日本への残留を口にした時も、冴の頭の中は約束が果たされるかどうかでいっぱいだった。
だからこそ。
「ねぇ冴ちゃん」
ジローランの不意の呼びかけに瞬いた。
それは一度目にはなかった出来事だった。膨大な数の繰り返しの記憶を有し、すっかりどの周回地点での記憶かも曖昧になってしまっていても、その出来事が一度目の記憶の中に存在していたかどうかくらいはわかるのだ。把握していなければ、簡単に失格を突きつけてくるこの世界では生きられないのだから。
「……」
一度目の記憶にはないジローランの行動に、冴はどう反応すればいいのかわからなかった。けれども、それなりに気を許している相手という、世界が定めた関係性がある以上、無視をするわけにもいかず、冴は無言で視線だけをジローランへと向けた。
「……冴ちゃんの探している人は、見つかりそう?」
ジローランは返事がないことには構わず、しかしながらどこか言い辛そうにして、伺うように問いかけてきた。
冴は今度こそ大きく目を見開いた。たちまち血の気が引く感覚がして、さっとジローランから視線を逸らす。逃げたと思われないように、進行方向をまっすぐに見据えて、止まりかけた足を前に進ませた。
大丈夫、警鐘は鳴っていない。自分の周回はバレていない。
努めて冷静になろうとし、心の中で唱える。あの時みたいに、逆行者に自分のことがバレた時のように、心臓に痛みはない。まだ世界は続いている。終わっていない。問題ない。
まとまらない思考を押し隠して、冴は一言。
「探している奴? なんだそれは」
そんなものはいないと、何を言っているのかわからないと、言葉にも顔にも表せば、ジローランは眉尻を下げて「そっか」と答えるだけだった。
たったそれだけ。それだけが、今回における最大の相違点だった。
警鐘はなく、強制終了もなく、時間は過ぎていったけれども、ジローランとのやり取りが、冴の心にわずかな危機感を与えていて。冴は気を引き締め直し、一度目の記憶を慎重になぞった。幸い、それ以降に何か異なことが起こることはなく、無事、青い監獄対U-20日本代表戦の当日を迎えることができた。
ようやく、ようやくだ。と逸る心を抑えて、冴は最後こそ気を抜かないようにと、前回の二の舞にはならないと、4ー5で青い監獄に負けるために試合に挑んだのだった。
