結局、全ての組分けが終わり、校長の話が終わり、食事が終わり、各寮の監督生が新入生を寮に案内するために立ち上がっても、セブルスはシリウスと視線一つ合わなかった。
セブルスの方は、未練たらしくスリザリンの寮席からシリウスに何度も視線を向けていたのだが、シリウスはセブルスのことなどすっかり忘れた様子で同じ寮に選ばれたあのジェームズと仲良く笑い合っていた。
新入生を祝う料理の山に、人生でこれほど豪華な食事など見たことがない、とセブルスが感動する暇などなかった。ただシリウスに自分の存在をなかったことにされたのだという悲しみに沈み、入学式を過ごしたのである。
食事は喉を通らず、いつも以上に何も食べられなかった胃は、寮の部屋に着いた頃になって空腹を訴え始めていた。
スリザリン寮は他寮に比べて人数が少ないからなのか、部屋は四人ではなく三人で使っているようで、家柄によっては一人部屋が与えられる場合もあるらしい。
セブルスは当然三人部屋に割り当てられ、魔法族だが一般家系出身の少年と片親がマグルだと言う少年と同室になった。部屋割りは十五歳で行われる一斉検査の結果によって再編成されるようで、今の部屋割りは暫定ということだった。稀に卒業まで部屋割りが変わらない生徒もいるらしいが、それはほとんど起こらない例外だそうだ。
セブルスはベッドのカーテンを閉め切り、空腹に鳴る腹を押さえて毛布を被った。他二人がセブルスに対してあからさまに仲良くなりたくないという態度をとっていたからである。
どうにも彼らにとってセブルスは浮いた存在であるようだった。その身形からもわかるように、セブルスはとてもではないが裕福とは言えない姿をしていた。純血貴族や純粋な魔法族ではないが中流階級の家系出身の二人にとって、セブルスという少年はどう関わっていいかわからない相手だったのだ。
セブルスはそんな二人の様子をつぶさに感じ取り、自己紹介もそこそこにベッドに閉じ篭ることで少年達のなんとも言えない視線から逃れることに成功した。その代償として、同室の生徒と友好関係を築く機会を失ったが、今のセブルスにとってはどうでもよいことであった。
荷解きをしながら親睦を深めている様子の二人の会話が、カーテン越しにセブルスへと届く。わいわいと楽しげに会話を弾ませている様子の少年達が羨ましい。
――自分だって、シリウスとそんなふうに……。
セブルスは浮かんだ思考を慌てて否定した。今更考えても仕方がないことで頭を悩ますなど愚かの極み。もっと建設的なことを考えるべきなのだ。
しかし冷静に思考を回すにしても、鳴り続ける腹の虫をどうにかしないことには何も思い浮かばないだろうことは明白であった。
(ああくそっ、どうして僕は何か食べておかなかったんだ!)
口に出して吐き出してしまいたい悪態を、同室の二人に気取られたくなくて心の中に収めた。空腹に苛立ちが際立ち、一度感情のままに胸中で叫ぶと次々と不満が出てくる。
(それもこれも、全部あいつのせいだ! 期待を持たせるだけ持たせておいて、要らなくなったらなかったことにするなど、性格が悪いにも程がある!)
くるくると鳴き続ける腹の虫が耳障りで仕方がなかった。セブルスは自分で考えておいて悲しくなる自身のどうしようもなさに瞳を潤ませる。
「……くそっ」
結局どうしようもない奴なのは自分だと気づいて毛布の中で丸まった。荷解きをしなければならないと考えるが、今度は眠たくなってきた。瞼が落ちそうになるのを我慢することに必死で、いつの間にか少年達の声が聞こえなくなっていることにも気がつかなかった。
元々が地下にあるスリザリン寮は、寮全体が薄暗い。しかし照明がないわけではないので、セブルスのいる部屋にも読書をするのに問題ない程度の明かりが灯されていた。だが、少年達も荷解きが終わって就寝することにしたのか、セブルスに無断で明かりを消してしまう。
セブルスは明かりが消えてようやく、眠気から抜け出すことができた。そしてカーテンを少し開けて周囲を見渡し、少年達がすでに眠ってしまったことを確認するとまたベッドに戻る。
ベッドの上に座り込んで、これからどうするべきか考えた。シリウスとはもう話すことなどできないだろう。もう一度くらいは話をしてこの想いを断ち切りたかったが、大広間で見たシリウスの様子を振り返ると、それは不可能に思えた。
かなりの時間をそのことで頭を捻っていたが、一向に解決しないことを悟ると、後回しになっていた荷解きをすることにした。もはや眠気などどこにもなかったのだ。
荷解きをしている間も、セブルスの頭の中はシリウスのことでいっぱいだった。手は無意識に荷物を整理しているのだが、セブルスは明らかに心ここに在らずという有様で、部屋の窓から差し込む湖の光が、カーテンを淡く照らすのを眺めている。
明日から必要になる教科書をまとめ、列車で脱ぎっぱなしのまま詰めた、制服に着替えるまで着ていた服を畳むために引っ張り出す。少しでも乱暴に扱えばたちまち破れてしまうほどに草臥れた、セブルスの体に全く大きさの合っていない服だ。こんなところでもシリウスとの違いを見てしまった気持ちになり、セブルスの気分はさらに落ち込んだ。
「もし、これが……」
もっと普通の服であったなら。贅沢は言わない。ただ一般家庭の子どもが着るような、ごく普通の服でいいのだ。誰もセブルスを同情や忌避、蔑みの目で見ないような、普通の家庭で普通の生活をし、普通の子としてホグワーツに入学できていたら。そんなことを考える。
消沈したまま畳む服の襤褸さに、ついに涙が一粒零れた。
「ああ、くそ……こんなことでっ」
慌てて拭った手を涙が濡らす。一粒だけであったはずのそれは、いつしか雨のようにベッドの上で畳まれるのを待つばかりのズボンへと落ちた。
目の前がすっかり歪み、手で触れているはずのズボンですら満足に見えなかった。溜まった涙が視界を塞ぎ、まるで水の中にいるように錯覚する。
――いっそ、このまま溺れて死んでしまえればいいのに。
セブルスの深い悲しみは、今ここに生きている自分自身すら許せない気持ちにさせた。シリウスに忘れられてしまった自分など、何の価値があるのだろうか。本当は、もっとずっと価値のある人間であったはずのセブルスを無価値なものに感じさせるほどには、セブルスにとってのシリウスという存在は大きくなりすぎていた。
「……っ、おまえ、は……」
嗚咽の中に疑問を落とす。言い切れなかった言葉は音にならないままセブルスの鼓膜を震わせた。
(……お前は僕の何なんだ? 僕にはお前を……『シリウス』と呼ぶ権利はあるのか? なぁ、教えてくれ……)
その名前さえ呼ぶことが許されないのなら、そのときは自死を選ぶことさえ厭わない。そんな悲痛な覚悟を抱いた。無意識に握り込んだ拳がベッドの上のズボンを巻き込む。ぐしゃり、と元々汚れが目立った襤褸の服がますます惨めな姿になった。しかし。
「……あ」
ズボンのポケットに入った何かに手が触れた。セブルスは瞬時にそれが何であるか思い出す。動揺に震えた手が素早く、しかし慎重にポケットの中を探り、脳裏を過った記憶通りの物を取り出した。
セブルスの涙に濡れた目が見開かれる。驚きと縋るような歓喜が、その瞳に浮かんでいた。
セブルスの手のひらに乗せられた小さな袋。それは個包装のクッキーだった。
そう、コンパートメントでシリウスに貰ったクッキーだ。今となっては唯一、セブルスがシリウスとの繋がりを感じることのできるものである。
セブルスは形を保ち丸い姿で手のひらにあるクッキーを、恐る恐る指の腹で撫でた。夢幻のように消えるかと思えたそれは、実在の物としてセブルスの手の中に在り続けている。
セブルスは吐息をもらした。もはや砕け散ったに等しいシリウスとの繋がりが、自分の手の中にある。今にも切れそうな細い糸だとしても、現実としてここに残っているのだ。
もう二度と忘れぬようにと両手で包み込み、安堵と一緒にその手を額に当てた。長く息を吐き、肺の中を空っぽにしてから深く息を吸う。自分を落ち着かせるためにしたその行動によって、セブルスはようやく自分が冷静になるのを感じた。
そして今一度確認しようと手を開き、そこにあるクッキーの姿にまた息をついた。そして。
「……これ、まさか……」
思わず零した言葉にセブルス本人も気づかないまま、その目を驚きに丸くした。
◇◇◇
一方、グリフィンドール寮は新入生の寮室。四人部屋の四つある机の一つにて。シリウスは羽根ペンとインクを用意し、真っ白なカードと向き合っていた。
夜も更け、寮どころか部屋も一緒になったジェームズ、リーマス、ピーターとの語らいも済んでいる。ホグワーツに入学したという喜びからか、幾分かはしゃいだ様子であった三人は、時計の針が真上に揃う前にそれぞれのベッドで寝落ちてしまった。
シリウスは彼らが寝静まるまで同じように無邪気に会話をし、一人になる瞬間を今か今かと待っていた。そしてようやく、机の前に腰を落ち着けることができたのである。
「さて、と」
深呼吸をする。どうにも緊張して手が震えそうだった。こんなことで情けないなと思うのだがそれも仕方ない。シリウスはこの十一年の短い人生で初めて、誰よりも優先されるべき唯一の人に手紙を書くのだ。
メッセージカードに、恋文ですらない連絡事項のようなそれを、シリウスは心臓を高鳴らせながら綴る。家から持ってきたインクの中でも、特別良い物を選んだ。そしていつも以上に気を遣って文字を書く。
それほどまでに、シリウスは送る相手のことを思っているのだ。
(……ひどいことをしたよな)
それでも気分が沈んだのは、大広間での自分の態度が最悪だったからだ。理由はもちろんある。グリフィンドールに入った手前、スリザリンに入りたがっていた相手に表立って目を向けることはできなかったのだ。
セブルス・スネイプという少年は、コンパートメントで出会った時からスリザリンに入りたがっていた。シリウスから見ても彼がスリザリン寮と相性が良いことは明白だった。
きっと彼はスリザリンに選ばれる。そう確信していたシリウスは、自分の組み分けが終わった瞬間から、まだ名前を呼ばれてもいなかったセブルスの顔を一度も見なかった。
セブルスが何度もシリウスに視線を向けていることには当然気づいていた。そのいじらしさに何度振り向きそうになったことか。自分の立場を忘れてセブルスを安心させてやりたかった。
だがシリウスはそうしなかった。否、できなかったのだ。
死喰い人や闇の魔法使いを憎むばかりに、スリザリン寮そのものを毛嫌いするジェームズの存在があったこと。自分がブラック家嫡男としてではなく、家に反抗しグリフィンドールに入寮したブラック家の面汚しという存在でなければならなかったこと。主にこの二つの理由から、シリウスはセブルスという少年の思いを無下にする他なかったのである。
(やっぱり、まずは謝罪をすべきだろうか)
メッセージカードの前で、書き終わった内容を何度も見返しながら考える。
時間と場所、ただ待っているというだけの素っ気ない文字だ。あまり多くを書くことができないために、どうにも冷たく感じる文章にしかならなかった。
(そもそも、セブルスは来てくれるのか……? あんな態度をとっておいて、今更虫がいいと思われるんじゃ……)
明日、二人きりで会えたら、まずは今日のことを謝罪しようと思っていた。そして自分が何故そのような行動をしたのか説明し、セブルスの気持ちを聞きたいと、そう言おうと思っていたのだ。
しかしここに至り、セブルスがシリウスの前に現れない可能性に気づいてしまった。今日の大広間での行動から、愛想を尽かされてしまった可能性である。
ただでさえシリウスは、自分がブラック家の長男であることを黙っていた。シリウスの名前を聞いて目を見開いていたセブルスの顔が脳裏を過る。酷く驚いた様子であったセブルスを思うと、明日会うことさえ絶望的なように感じ始める。それどころか、今書いたメッセージさえ見てもらえないかもしれない。
シリウスは自分の無意識の傲慢さに頭を抱えた。シリウスがセブルスを一目見て自分の運命だと悟ったように、セブルスもそうであるのだと、そう思っていたのに。もしかするとそれさえシリウスの独りよがりだったのでは。
(まさか、そんなはずはない。あの時のセブルスは確かに……)
初対面を思い出し、シリウスは首を横に振る。記憶が正しければ、セブルスはシリウスと同じ感情でこちらを見ていた。不安になるばかりに、記憶さえ曖昧になっているのだと自分自身に言い聞かせる。
(そうだとも。大丈夫だ、落ち着け)
何度も深呼吸して気持ちを落ち着かせた。セブルスから返事の出せない手段を選んでしまった自分を恨んでしまいたい気持ちになる。
――どうか、セブルスがあのクッキーに気づきますように。
切実に願いながら、机の上のメッセージカードを蝋燭の火に当てて燃やした。新しい便箋を用意すると、不安を吹っ切るように頭をもう一度振り羽根ペンを手に取る。
拝啓、そう書き出してブラック邸でシリウスの手紙を待っているだろう両親と弟に手紙を書く。一通は両親に、もう一通は弟宛てだ。
両親には初めからシリウスの考えを話して理解を得ているため、グリフィンドールに入ったことに否やはないだろう。敵を騙すにはまず味方から、と対外的な措置のためにシリウスを咎める手紙を、明日の朝食の時間に送ってくるはずだ。
対して弟は何も知らないが故に驚くだろう。これから大局を見れぬ愚かな外野達が弟のレギュラスをブラック家の跡取りに、と声を上げ始めるだろうことは予想がつく。あの姦しい声がこれからはレギュラスに向けられるのだ。それを黙って聞かなければならないという役目を、どうしようもないとはいえ、弟に負わせてしまうことに気持ちが沈んだ。
何も心配はいらないから、憂いなく過ごすように。そのような言葉をレギュラスの手紙の末尾に添えた。
(ブラック家のことを、他人如きがよくも口出ししようとなど思うものだ。当主が言いもしていないどころか否定すらしていることを、何故あんなにも声高に叫べるのだか……)
シリウスは、ホグワーツに入学する前からシリウスの態度を見て次期当主はレギュラスに、と言い始めていた他家の貴族達を思い出してため息をついた。数年前からホグワーツへの入学を見越して純血主義に反発した態度をとっていたが、まさかそれを精査することもなく、ブラック家の後継問題に口を出す輩が出るなど、身の程知らずもいるものだと思う。
(まぁ、父上のあの顔を見るに、しばらくは放置されるのだろう。ああ……賢明な家の者達は沈黙を保っているというのに、愚か者はこれぞ好機と闇の帝王側に傾くのだから情けない)
シリウスは冷笑した。書き終えた手紙を丁寧に封筒に入れ、封を閉じる。封蝋に刻まれた紋章は、ブラック家の意匠が丹精に刻まれている。それも後継として当主に認められた子どもしか使えない特別な意匠だ。
きっと、これを見たらレギュラスが当主に相応しいなどと言う人間はいなくなるのだろうなと思いながら、二通揃った手紙を連れてきた漆黒の梟に持たせた。
「――ブラック邸へ」
窓から飛び立った梟を見送り、シリウスは杖を一振りした。机の上にあった便箋や羽根ペン、インク瓶を鞄の中に片付ける。ローブを脱いで椅子の背に乗せると、大きな欠伸を一つ。
「ふぁ、ねむ……」
その一言ですっかりあどけない子どものような表情になり、シリウスは四人部屋に残された無人のベッドに寝転んだ。乱雑に脱ぎ散らかした靴がベッド傍に転がり、シリウスの粗雑さを演出している。
掛け布団の中に潜り込んで瞼を閉じる瞬間、シリウスはまたセブルスのことを思い出した。
どうか。再度、そのように願いを込めて祈る。すでに眠気に負けてしまっているシリウスは、明日セブルスに会えるようにと願いながらも、意識は夢に旅立っていった。