ホグワーツに入学する数年前から、シリウスがグリフィンドールに入るつもりであることを知っていた両親は、ホグワーツについての話題であっても、寮のことには一切触れてこなかった。スリザリンのことを話したところで、それが無駄になることを理解していたからだ。
シリウスはそれが少し残念ではあったのだが、たとえ家の中であっても、事情を知らない弟のレギュラスがいる以上、表立ってスリザリンの話を聞きたいなどとは言えなかったのである。
あの賢い弟ならば、完全に理解はしていなくとも察するところはあるのだろうとは思ってはいたが、両親及びシリウスがそれについてレギュラスに明言することはなく、シリウスは当初の予定通りグリフィンドール寮生となった。
しかし、役に立つこともあるのだな、とシリウスはかつて無駄になるだろうと考えていた両親が語ったホグワーツについての話を思い出していた。
両親の話は、スリザリン関係を避けた話題ではあったが、そもそも彼らがスリザリン出身であったので、話す内容がそちらに偏ってしまっていた。故にシリウスは自分がホグワーツに入学しても役に立たない話になるのだな、と嘆息しており、両親もまたそれを感じて眉を下げるばかりだったのだ。
だが今、シリウスは両親から聞いていた部屋の中にいる。それも、セブルスと二人きりで。
「こんなところが……」
部屋の中を見渡して感嘆の声を上げるセブルスを見て、シリウスの口角も自然と上がった。
「ここのことは、父上に教えていただいた」
「……それは、ブラック家の当主の?」
「ふっ、その当主以外に俺の父親はいないぞ」
質素ながら品の良い室内のソファーにセブルスをエスコートする。
シリウスの言葉に、躊躇い窺うように訊ねてきたセブルスの質問に少し笑った。どうにも、シリウスの入学式での態度はこの少年にも通用していたらしい。
セブルスの向かい側のソファーに座り、シリウスは優雅に脚を組んだ。背もたれに軽く背を預け、ゆっくりと首を傾ぐ。
「君には、随分と気を揉ませてしまったのだと思う。言い訳をさせてもらえるなら、君に会う何年も前から、俺は入学式の時のような行動をすると決めていた」
「僕を……無視することを?」
「いや、スリザリンを蔑ろにした態度をとることをだ」
「なぜ……?」
困惑した顔がシリウスに向けられた。どこか泣きそうにも見える瞳が、しかしシリウスを真っ直ぐに見つめている。シリウスの表情からその真意を知ろうとする目だった。
「そうだな……始めから話すにしても、少し複雑なんだ」
何から話すべきか少し頭を悩ませる。セブルスを見つめていた視線を下に向けた。伏せた目に視線を注ぐセブルスの気配ばかりが感じられ、どうにもむず痒い。
「僕に言えないことなら、言わなくていい」
「そんなことはない。君に言えないことなど存在しない。セブルス、君は聞きたいことをただ聞きたいと言ってくれればいいんだ」
俯いてしまったセブルスに優しく声をかけた。どうにも自己評価の低い傾向にあるセブルスには、シリウスの態度が言えないことをどのように誤魔化すか考えている様子に見えたようであった。
そんな勘違いをさせてしまうわけにはいかないので、シリウスは言葉を尽くして否定した。するとセブルスは、その言葉を聞いて初めはぽかんとしてシリウスを見たが、みるみる顔を赤くすると、また俯いてしまった。
「……っ、大袈裟だ。そ、そんなことより、喉が渇かないか? 何か飲み物を……」
あからさまに話を逸らしたことには気づいたが、シリウスはそれには気づいていないふりをする。
「そうだな。放課後図書室で落ち合ってからすぐに来たからな……。少し待っていてくれ」
組んでいた脚を戻し、ローブの中から杖を取り出す。一振りするとテーブルの上にティーセットが揃い、もう一振りすると茶器が一人でに動き出してティーカップに紅茶が注がれた。
「……すごいな」
感心したような声でテーブルの上に用意された紅茶をセブルスが見つめた。
「この部屋自体に魔法がかかってるんだ」
杖はただのスイッチでしかない、とシリウスは語る。セブルスは感心しきりで部屋を見渡した。
小さな部屋は応接室といった造りで、質素の一言で言い表してしまえるような部屋である。しかしよく見ると、その飾り気のないありきたりな家具は、細部に優美な彫刻や装飾がなされており、素朴ながら風雅な装いだった。
一度その部屋の細やかさに気がつくと、セブルスは素晴らしい品格の家具達に目を奪われた。こんなものは見たことがない。豪華という言葉は、庶民などは手に入らない、美しい装飾が主張するような家具や部屋の内装のことを言うのだとばかりセブルスは思っていた。
「なんというか……ここは落ち着くな」
「そうだな。俺もここが気に入った。杖を振るだけで飲み物も食べ物も困らないところがいい」
そう言ってシリウスが紅茶を口に運ぶ。それを見てセブルスも慌ててカップを持ち上げた。
カップを持ち上げてみて初めて、その紅茶の香り深いことに気づく。香りだけでほっと一息ついたセブルスを、シリウスが甘やかな目で見つめていた。それに気づいたセブルスがますます頬を赤く染めるので、部屋の空気は初々しい恋人同士を見守るような包み込む雰囲気に変貌していた。
「さて……本題に入りたい」
しばらく、紅茶の香りと味を楽しんていた二人だったが、シリウスがカップをソーサーに置いて顔を上げたことでその空気が断ち切られた。
真剣な表情がセブルスに向けられている。セブルスはその息を呑むようなシリウスの美しさに圧倒された。このような美しい人の隣に立つことなど、自分にはできそうもない。それがセブルスにとっての『運命』であったとしてもだ。
ソーサーに置いたカップが、シリウスのそれに反してカチャッと音を立てる。その明らかな育ちの差でさえ、セブルスを卑屈にさせる原因となってしまう。
「……その、僕は……返したくない。本当は返さなければならないと、わかっているんだ。……でも、どうしても嫌だ」
じわり、と目に涙が浮かんだ。自分の身勝手さにセブルスの心はますます落ち込むばかりである。
セブルスはまたしても俯いてしまい、そのまま顔を上げられなくなってしまった。
「ん?」
対してシリウスは、少し怪しげな顔をしてセブルスを見た。
「……どうも、俺と君とでは何か認識の齟齬があるようだ」
セブルスの言葉に耳を傾けていたシリウスは、俯いた彼の頭を眺める状況になっていることに困惑の念を強くしながら、セブルスの真意を知るために彼を観察する。
昨日の今日では改善されていないセブルスのガタついた黒髪に、真新しい制服とローブ。俯くばかりで一向にこちらを見てくれない瞳は薄く水の膜が見え、シリウスは自然と悲しい気持ちになった。
「セブルス、君は俺に何を返したくないんだ?」
「……」
セブルスが黙る。シリウスの質問に言い淀む様子で視線を彷徨わせていた。
シリウスは努めて優しげに見えるように笑った。
「安心してくれ。俺は君に渡したものを返せだなんて言うつもりはない」
その言葉はシリウスの本心だった。セブルスに渡したものというのが何であるのか、シリウスは見当もついていなかったが、自分の意思でセブルスに渡したものを返して欲しいなどと言うわけがない。
セブルスになら自分の全てを渡してしまっても後悔などしないのだ。それが自分の中の本能が彼という『運命』に尽くしたいと思ってしまうからなのか、それとも別の理由からなのかはわからないが、どんな理由であれ、シリウスはセブルスを否定しない。
そんなシリウスの気持ちが届いたのか、セブルスが恐る恐るといった様子で顔を上げた。シリウスの顔を、その耳から落ちた長い前髪の隙間から窺っている。シリウスは殊更に柔らかに見えるように笑みを深め、セブルスの言葉を待った。
「……これ、だ」
そうして、口の中で終わってしまうような小さな声と共に、ローブの中から取り出した物を見せてくれたセブルスに、シリウスは目を見開いた。
「役目が終わったなら、返すべきだとはわかっているんだ……」
セブルスの手の中にある個包装。シリウスはそれに目を奪われて彼の言葉を聞き逃していた。
でも、ともごもごと不明瞭に何かを言っているのはわかっていたが、その音はシリウスの耳を右から左へと通り抜けていくばかりである。
それは、コンパートメントでシリウスがセブルスに渡したクッキーだった。今日の日付と、放課後に図書室に来てくれという文字が焼き印で押されており、当然シリウスはその文字を知っている。自分の筆跡だ。確かに昨夜、クッキーと対になるメッセージカードにその言葉を綴った。
「シリウス? ……やっぱり図々しい願いなんだな……」
セブルスの諦観の滲む言葉も、シリウスには聞こえていなかった。じわじわと湧く仄かな喜びばかりがシリウスを満たしていたのだ。
「す、すまない。僕の言ったことは忘れてくれてい──」
「ふっ、はははっ! き、君、それは見当違いだぞ。俺がそんなことを望むものか」
「……え」
呆然とこちらを向くセブルスのその表情さえ、今のシリウスには愛おしく思えた。こんな何でもない些細なことで真剣に悩んでいただろうセブルスを思うと、シリウスは笑いが止まらなくなる。
「わ、笑うな!」
ようやく自分の考えが間違っていたのだと気づいたセブルスが抗議の声を上げたが、シリウスはそれでも止められぬ笑いを、くすくすと零し続けた。
「そんなに僕が滑稽なのか!」
「いいや。そうじゃない。そうじゃないさセブルス。俺は、君という人が愛おしくて堪らないんだ」
シリウスは笑いをどうにか抑えながら、杖を取り出して一振りする。机にあったティーセットがたちまち消え、セブルスが叩きつけるように置いたクッキーだけが残った。
シリウスはそれを手に取り、表と裏を一度ずつ眺める。そして、その瞳をとろりと甘く綻ばせてセブルスを見つめた。
「元々、これは君にあげたものだろう? 返す必要なんてないし、その日のうちに食べて欲しかったくらいだ。むしろ、セブルスはどうしてこれを残していたんだ?」
「……」
「勿体ない、と思ったのか?」
図星だと、セブルスはわかりやすく顔を赤くしてそっぽを向いた。ああ、とシリウスは吐息をもらす。セブルスのいじらしさに心揺さぶられていた。ますます愛しいという思いが湧き、自分は深みに嵌ってしまったのだと自覚する。
「それなら尚更、これは君が食べるべきだ」
コンパートメントの時と同じように、シリウスはクッキーをセブルスに差し出した。しばしクッキーを見つめたセブルスは、意を決したように受け取り、シリウスを強い目で見つめた。
「お前は、僕を運命だと認めるのか」
「当然だろう? それが真実で、間違いようのない事実だ」
「……僕は、お前を『シリウス』と呼んでもいいのだろうか?」
一度目を閉じて、少し不安そうに見つめてくるセブルスに、シリウスはゆっくりと頷く。
「ああ。俺が頼みたいくらいだ。それに……今日君をここに呼んだのは、この『運命』をどうするか、二人で決めたかったからだ」
本当にようやく、シリウスは本題に入った。セブルスも居住まいを正す。彼は手の中のクッキーを可愛らしく両手で胸に抱え込んでいた。
シリウスはその様子に一つ笑みを零すと「まだ早いが」と話し出す。
「検査も何もしていないが、会って確信するものなんだな『運命』というものは」
「それは、僕も驚いた。御伽噺だと思っていたからな」
「──『運命の番』か。眉唾物だとばかり思ってたさ、俺も。でも違った」
「自分のバース性もわかっていないのに……」
ありえない、とセブルスが世間一般の常識に照らし合わせて呟いた。