バース性。男女の性別以外に存在する第二の性別。『α』『β』『Ω』の三つに分けられ、十五歳になると一斉検査が行われて自身のバース性を知ることになる。
また第二性の特性として『α』は『Ω』と『Ω』は『α』と、男女の性別に関わらず『番』という特別な繋がりを持つことができる、というものがある。その番の中でも遺伝子的相性が最も良い相手は『運命の番』と呼ばれるのだ。
それは出会ってしまえば感情など関係なく惹かれあい、一目でお互いにお互いが『運命の番』だと気づくことができると言われている。まさに天に定められた関係だ。
しかしその遭遇率は極めて低く、お互いの証言でしかその存在を確認することができないことから、真に『運命の番』と呼ばれる存在はいないとされ、夢物語の域を出ない。
故に希少性を尊び、憧れを抱く人間は多く、物語などの創作物で『運命の番』を題材にしたものが多く作られ、今なお増え続けていた。
そんな創作物をいくつも見てきたシリウスは、しかし運命など信じてはいなかった。そんなものは夢物語の代物で、自己の妄想によるものでしか存在し得ないのだとばかり思っていたのだ。
だが、目の前にその運命がいる。ソファーに座り、シリウスと共に紅茶を飲むセブルスの姿は、シリウスには一等愛おしく見えて仕方がない。今すぐ跪いて愛を語りたいと、コンパートメントで出会った時から思い続け、同時にそんな姿を晒さぬようにと、自分自身を抑え続けていた。
「俺は、君の意思を尊重したいと思っている」
組んだ手を膝に乗せ、視線を手に固定しながら言葉を発する。
努めて誠実に、入学式での態度についての理由を語り、少しばかりの沈黙が二人の間に落ちた後のことであった。
「君と俺は運命によって結ばれているが、それを理由に番う必要もないだろう。俺達はまだ出会ったばかりだ。相手の為人を知ってもいない。時期尚早だと感じている」
「……それでも、僕らは運命だ」
「そうだとも。だが、それを理由にして君が後悔するなんてことはあってはならない」
シリウスは、セブルスを大切に思うからこそ、簡単に番契約を結ぶなんてことをしたくはなかった。彼らはまだ十五歳に至らぬ少年なのである。正式にバース性がわかるまでの間、何年も考える時間があるというのに、今すぐに決めてしまう必要などないと、シリウスは本能を理性で抑え込んだ。
しかしセブルスは、そのシリウスの言葉に不満を露わにする。セブルスにとっても、シリウスは唯一無二の運命であったので、今すぐ番っても後悔など絶対にしないと確信していたからだ。
「僕は、後悔などしない」
不満を抱えたまま零した言葉が、随分と子どもっぽい響きになった。セブルスはそれに羞恥を覚えたが、シリウスはそんな言葉さえも真剣に受け取り、眉を顰めた。
「俺はな、セブルス。君のためなら全てを捧げてもいいと思ったんだ。だがそれは、俺が君に出会う前に決めてしまった目的のせいで決してできないことでもある」
それはわかってくれるだろ、とシリウスが訊ね、セブルスが頷いた。それを確認してシリウスがため息をつく。
「これからも俺は、君に不便を強いるだろう。君がスリザリンである限り、俺は表立って君を庇うことができない。君に降りかかる不利益を全て見て見ぬ振りをしなければならない」
「そんなこと、僕は気にしないが……」
「俺が気にするのさ。もし番になってしまえば、君は俺の態度に傷つくだろう。それは理屈じゃなく、番としての本能だ。そうして傷つくセブルスを俺は見たくないし、できることなら君に不自由を強いたくない」
シリウスは酷く苦しそうな顔で話し続ける。セブルスを思うからこそ、そう何度も伝える言葉にセブルスは胸を打たれていたが、そんな感動と共にシリウスを見つめるセブルスの様子には気づいていないようであった。
セブルスは、シリウスのその気持ちだけで十分幸せなのだと言いたかった。実際何度も口にしようとした。しかしセブルスはどうにも口下手で、言いたいことを素直に口に出せない性分であったので、シリウスの語るセブルスへの思いを聞くばかりになっていた。
「だからこそ、俺はセブルスの意思を尊重したいと思う。こんな不誠実なαを番にしたくないと言うなら、それに従おう。誰か他のαと番いたいと言うなら手伝いもする。だが万が一、こんな俺でもいいと言うなら……」
そこまで言ってシリウスは一度言葉に詰まる。言ってもよいものかと、逡巡するような様子があった。そして瞼を強く閉じたかと思うと、二拍の後に開いた目がセブルスを見つめた。
「——私に、君を愛させてくれ」
その言葉は、真っ直ぐにセブルスの心に刺さった。普段は繕えているはずの自己の人称さえ、シリウスは素に戻ってしまっている。そのことに気づいたセブルスは堪らない気持ちになった。
これほど印象深い言葉もないだろう。これほどの愛を、シリウス以外から向けられることなど、きっともうない。
そして同じ愛を返すことができるのもまた自分だけだと、そう思った。
セブルスは途端に浮かんだ涙を抑えることもできず、しばしシリウスを見つめていた。
緊張した面持ちでセブルスに視線を向けていたシリウスの目が見開かれる。セブルスが涙を流すのを目の当たりにして、彼は思考が追いついていないような顔をしていた。
セブルスは、シリウスでもそのような顔をするのだと、どこか冷静に考えた。シリウスの知らない部分を、こうして少しずつ知っていく未来を思って笑みが零れる。
シリウスの言葉に返事をしなければと思うのに、セブルスは上手く言葉が紡げないままだった。こんな不誠実こそ、シリウスは非難するべきだろうに、彼は自分が悪いのだと言い、一度としてセブルスを否定しなかった。
その優しさをまざまざと感じているセブルスは、シリウスが何を言っても気にならなかった。シリウスの言葉の通りに、番になれば彼の行動に何度も傷つくのだろう。精神的に繋がった番に蔑ろにされることは、他の誰の蔑みよりも心を疲弊させるに違いない。
だが、それでもいいと思った。それさえも覚悟してセブルスはシリウスの番になりたいと思う。彼ほど愛おしく思える存在などもはや現れるはずがない。今頷かず、中途半端な関係に留めてしまうようなことなど、絶対にしたくなかった。
セブルスは流れる涙をそのままに、真っ直ぐにシリウスを見据えた。驚きの中に留まるシリウスが、セブルスの目を見つめ返して我に返る。
はっとしたような顔をしてセブルスを見るシリウスの、星の輝きを内包したような灰色の瞳がセブルスの一挙手一投足を見落とさぬとばかりに煌めいていた。
息を吸う。その動作さえ胸がつかえて覚束ない有様だ。セブルスはほとほと自分の情けなさに内心で呆れた。
「……なんでもいい。僕はただ、お前の心を受け取れる権利が欲しい」
この期に及んで吐き出す言葉がそれかと、セブルスは自分自身に苛立った。もっと素直な言葉を選ぶつもりだった。シリウスの番になりたいのだと、君の愛をくれと、そう言いたかったのだ。
だというのに、現実は無情だ。何が言いたいのかわかるようでわからないような言葉を発するばかりの自分の口が、セブルスは嫌になる。
「ち、違う。僕はその……つまりお前の、だな……」
視線を左右に彷徨わせ、しどろもどろに弁解の言葉を探した。どうにか素直な言葉を言おうとしたが、セブルスはどうしても「好きだ」という言葉を言うことができなかった。
ついには自分の不甲斐なさに涙の色を変え、セブルスは黙り込んでシリウスの言葉を待った。
あれほど言葉を尽くしてくれていたシリウスではあったが、このセブルスの捻くれた性格を知れば嫌気が差すかもしれない。そのような考えが過った。もはやシリウスが何を言っても受け入れようと、セブルスは静かに覚悟していた。
しかしシリウスが発した言葉は、なんとも喜びに満ちた色をしていた。
「ああ、よかった」
一言、安堵の息と共に零れ落ちた声が、セブルスの鼓膜を震わせる。セブルスが改めてシリウスの顔を見ると、彼は心底嬉しそうな笑みを浮かべていた。
その笑みの美しさは、これまでセブルスがシリウスに感じてきた、神の造形物を見た時のような感嘆とは異なっていた。それはどこまでも人間らしく、現実に生きているものが有する生命の輝きを映す微笑みだった。
そうだ。彼は人間だ。
セブルスはようやくそのことに思い至る。そんな当たり前のことさえ忘れてしまうほど、シリウスという少年は美しかったのだ。
「私の心など、いくらでももらってくれ。囁く愛の全てに君が喜びを感じてくれるなら、それはどれほどの幸福だろうか」
シリウスが言葉と共にセブルスへと手を伸ばした。近づく右手をセブルスは涙に濡れた目で見つめていた。
止まらない涙がぽろぽろと瞬きの度に雫を落とす。シリウスはその涙の雫を人差し指で掬い取った。
「この涙は喜びからのもので間違ってはいないか?」
乗り出した身体によって近づいた顔の距離にセブルスは息を呑む。見開いた目に、期待を滲ませたシリウスの顔が映った。
これが喜びであればいい。シリウスはそう思っているのだ。セブルスの流す涙が、嬉し涙であれば、これほど幸せなことはないと、そう思っているのである。
感じ取ることのできてしまった、この美しい人の少年らしさの溢れる感情に、セブルスは感動した。
これまでセブルスの気持ちを尊重したいという態度を保ち続けたシリウスが、自分自身の感情を優先しようとしている。
セブルスはそんなシリウスのいっそ自分勝手な感情を感じる度に愛しさを募らせた。
「それは、僕の幸福だ。シリウス……お前が受け取ってくれなければ、たちまち僕は不幸になってしまうだろう」
涙声のみっともなさを無視して発した言葉が、シリウスの耳へと届けられる。瞬きの間、呆けたような顔をしたシリウスが、満面の笑みをセブルスに向けた。
「ははっ。それならこの先、君に不幸は訪れないな、セブルス」
そう言って、シリウスはセブルスの涙の最後の一滴を拭い取った。