オリンピックイヤーがやってきた。世間を賑やかすスポーツの祭典。冬のオリンピックに選手たちの意気込みも相当なものとなる年である。
純はその年、誰の反論もないほど順当にフィギュアスケート男子シングルの代表選手に選ばれた。オリンピック開会式は年越し後の二月。それまでは本番に向けての調整で日々のスケジュールが埋まり、家に帰ってゆっくりする時間よりも、スケートリンクにいる時間の方が長いのではないかと錯覚するほどだった。
形だけのコーチのいるリンクで、純は大会用のプログラムを滑る。ジャンプの確認や、ステップやスピンの確認、エッジの角度や踏切のタイミング、音楽とのズレがないか。スケートに関するあらゆることを、純は一人で熟していた。誰かの意見を聞こうとは思わなかったし、純に指摘できる誰かもいなかった。
氷上の孤独を、純はいつだって心地よいと思っている。煩わしい外界のすべてを閉ざして、頬を刺すような空気の冷たさを感じる瞬間こそ、生きていると思えたからだ。
だが。
「……」
純は氷の上で立ち止まって、自身の手のひらを見下ろした。
黒い手袋に包まれたいつも通りの自分の手。来ている服も履いているシューズも、何もかもがいつも通りだった。
吐き出した息は微かに白い靄となって、空気に溶け込むように消えていく。氷を削るブレードの音も、置き物程度の価値しかないコーチの姿も変化はない。
それでも、何もかもが違っていた。
純は一度目を閉じて、数拍沈黙した。じっと何かに耳を澄ませるように、何かを感じ取ろうとするかのように、胸元に緩く握った手を当てて静止する。
それはほんのわずかな時間だった。純の様子に誰かが違和感を覚える寸前。「あれ?」と首を傾げる人が出る刹那前で終わってしまうような極小の違和。不協和音のようなそれを覆い隠して、純はまたいつも通りの練習を続けた。
「──終わりが来るよ」
純がその違和感を言葉にしたのは、スケートリンクを出た後。帰宅後のリビングで、太陽のような笑みを浮かべて出迎えてくれた少年を抱き締めたときだった。
「司。僕を見てて」
最期の懇願を、少年──司は、真剣な顔で受け入れた。
「見てるよ」
帰宅したばかりだからというには無理があるほど冷え切った純の手を、司の熱いほど温かい両手が包み込む。じんわりと温もりを移す手を見つめながら、純はただ「ありがとう」と零した。
その年の二月。冬季オリンピックのフィギュアスケート男子シングル金メダリストとして、夜鷹純の名が刻まれた。
出場した大会のすべてで金メダルを取り続けた鬼才。彼のジャンプに転倒の文字はなく、ステップシークエンスは当然のようにレベル4を叩き出す。他者の追随を許さず、氷上に燦然と輝く青い星。氷の世界を明けぬ夜で覆った絶対王者。誰からも畏怖され、恐れられた魔王の如き男は、彼が二十一歳になるはずの年のオリンピックを最後に、氷上から姿を消した。
「……純くん」
その後の彼を誰も知らない。彼の唯一の友人であったはずの鴗鳥慎一郎も、彼のコーチだったはずの人々も、彼が所属していたはずのクラブも、日本スケート連盟ですら。アイスショーに出てくるわけでもなく、ましてや後進を育てる指導者になったわけでもなく、ただ『夜鷹純』という名を氷の世界に残して去った彼は、まるで夢幻のように行方を晦ませた。
「お願いだから、目を覚まして」
たった一人。ベッドで眠る彼の手を傍らで握り締める少年だけが、彼の真実を知っていた。
