この手を離さないで - 4/5

 多少の衝突はありながらも、平穏な日々を過ごしていた純たちの生活にかげりが見え始めたのは、純が十八歳の誕生日を迎えた次の年。スケートのシニアに上がって初めてのシーズンが始まった七月のこと。  ある日の定期検査で、研究員の男が検査を終えた純たちを呼び止めたことがきっかけだった。 「──人工的運命化?」  通された真っ白な小部屋で、純は研究員の言葉を鸚鵡おうむ返しに繰り返した。聞きなれぬ言葉だった。 「はい。私たちは希少性ダイナミクスにおける番関係を解析し、人工的に運命の番を成立させるための研究をおこなっていました」  研究員は沈痛な面持ちで純の疑問に答えた。嘘偽りは言わないと、つい先ほど宣言されたばかりである。  検査後はいつも眠そうな司は、すでに半分夢の中だ。うつらうつらと揺れる司の頭を自らの胸元へ寄せ、そのまま司の身体を自身の膝上に誘導した純は、研究員の男を見遣った。 「僕らが聞いていたのは『擬似的番契約』に関することだったはずだよ」 「それも間違いではありません。ただ初めに協力をお願いした『擬似的番契約』にはもう一つの役割があったのです」 「それが、運命の番ってわけか」 「はい」  研究員の顔色はすこぶる悪い。初めて研究所に連れて来られた時に会った高圧的な態度のスーツの男に比べれば、あまりにも頼りない印象の男だ。誰が見ても損な役割を押し付けられたのだろうことがよくわかる様相をしていた。 「ところで、研究協力って正確な説明義務があったはずだよね? 今さらどういうつもりなの」  純は苛立ちを隠さずに訊ねた。  純の膝上で眠る司の寝顔はまだあどけない。あと二ヶ月もすれば十一歳になるはずの少年だが、純にはまだまだ幼く見える。平熱が他人より高いが故の温かい身体。時折、発熱しているのではないかと錯覚するほどのぽかぽかの体温は、寒夜になると布団の中では湯たんぽのように感じられる。  対して純の体温は低い。他人よりもずっと。そしてそれは、年を経るほどほんのわずかに、勘違いかと思えるほど微かに、下がり続けている。昨年そのことに気づいた純は、心配になって司の体温も計測した。結果、上昇しているといった様子はなく、ただ平熱が高いだけだということがわかった。  純は人知れず安堵した。司に何かあれば自分のこと以上に苦しいのだと、この数年で気づいてしまっていたからだ。  だというのに、その心配が杞憂ではなかったのだと証明するような話が研究員から語られた。 「──研究は失敗しました。プロジェクトは現段階で停止、続行は不可能であると判断されたため、破棄が決定されています」  純の質問に研究員は答えなかった。一方的な決定を伝えるだけの男の顔色は蒼を通り越して白い。視線は合わず、声は震えていた。 「説明して」  だが純は、それで終わらせなかった。  研究員が息を呑む。伏せられていた瞼を上げて純を見た。凡庸な顔は頬が痩け、精神的に参っていることが伝わってくる。 「君たちにはその責任があるはずだよ」  純は重ねて言いながら、今にもため息をつきたい気持ちだった。大体の予想がついてしまっていたからだ。 「──いつまで生きられるの」  自分たちの死の刻限を認識した瞬間だった。  覚悟を決めたらしい研究員が口を開く動作も、そこから発される声も、聞こえてくる言葉も、何もかもが幻のように思えた。  運命の番を人工的に生み出そうとした研究。擬似番契約による、本来の運命の番同士に存在するという魂の強い結びつきの再現。一時は成功したと思われたそれが、どのようにして失敗したのか。  研究員は語る。一度口に出してしまえばもう止まれないのだろう。興奮と絶望の混ざった声音が、小さな白い部屋の中に延々と響く。 「擬似契約時に二組。本契約前に五組。本契約時に九組。計三十二名が亡くなりました。擬似契約時の傾向から、追加で計十二組の十五歳未満のラットやヒートを経験していないα性とΩ性に協力を願い、再度の研究を試みましたが、いずれも擬似契約時に三組、本契約までに全員が死亡しています」  ──合計五十六人。それだけの人間が死んだと、研究員は告げた。 「原因の究明を急ぎましたが、現段階を以てしても明確な理由は不明です。本契約時の状況が重複契約時の拒絶反応による発狂死に酷似していることから、擬似契約時に通常の番契約には存在しない形での魂の繋がりを再現している影響で、α性及びΩ性に対する強い拒絶反応が生じているものと思われます」  白い顔で研究員は続ける。紡がれる言葉は途切れず、滔々と捲し立てているようだった。 「死亡者の数は他の類を見ません。政府は直ちに研究停止を命じました。研究所はこれを受け、研究の永久破棄を決定。唯一の生存者に説明を行うこととなり、その説明役に私が選ばれました」  貴方たちだけです。生き残っているのは。  言って、ようやく研究員の顔に赤みが刺す。開いた瞳孔を純たちに向けて、興奮冷めやらぬといった面持ちと声で叫ぶように発声した。 「どうして生きているのか、それはわかりません。ですが貴方たちは確実に何かが違う。他の方々と変わらない数値だというのに、至って健康的だ。多くが訴えた頭痛や吐き気といった体調不良も見られない」  素晴らしい。と、男が笑う。何が可笑しいのか哄笑する。狂ったように、泣きながら。  それを純は黙って聞いていた。眠っている司が目を覚まさぬようにそっと耳を塞いで、奥歯を噛み締めながら悔しさに耐えていた。  一等大切な子を守ってやれないのだと、そう言われているように思えてならなかったからだ。 「──ですが」  一頻り笑った研究員は、一瞬で感情をごっそり削ぎ落とした無表情になった。 「長くは生きられないでしょう。不調が全くないというわけではないと思います。今は表に出ていないだけで、これからその不調は顕在化するはずです。そうなれば日常生活を送ることすら困難になるでしょうし、一気に死が近づいてくると予想されます」  研究員の言葉に、純ははっとした。潜在的な不調に心当たりがあったのだ。  自らの手を見下ろす。司を抱き抱える自分の手が酷く心許なく思えるのは、純の熱が冷え切っているからだ。  下がり続ける体温。つい最近、気にかかって調べた司の平熱。  おそらく予兆は随分と前から存在していた。ずっと気づかない振りをしていたのだ。  初めて会った頃の司の手の温もりは、ここまで温かくはなかった。純は氷上でプログラムを演じながら寒いと思ったことなどなかった。  ──なのに今は。  これが、顕在化し始めている不調だと言われてしまえば、確かに納得できる話だった。  どうすればいいのだろう。一体どうすれば司を救えるのか。この子だけは大切にしようと、純はそう思い続けてきた。他のあらゆるすべてをスケートのために焚べてしまったとしても、たった一人の半身己が片割れだけは、決して手放さないと、そう決めていたのに。それさえも叶わないらしい。  結局、自分はどうしようもなく陸上で生きることが不得手で、陸上の生き物にはなれないのだと突きつけられるばかりだ。  純の思考が沈んでいく。悪い方へと向かう感情を助長するように研究員の声が聞こえた。 「覚悟しておくことです。研究結果から考えても、貴方たちが無事に生きられるのは本契約が行えるようになるまでです。その子のヒートが来てしまえば、死は確実のものとなるでしょう」 「……契約で発狂するなら、しなければいいんじゃないの?」 「──勿論、本契約をしないという選択肢もありはしますがお勧めはしません。それは貴方のΩに契約を破棄されたΩ性よりも強い苦しみを与え、そして殺すことになるからです」  最後の抵抗さえもあっさり切り捨てられて、純はただ「そう。わかったよ」と答えることしかできなかった。  それから純は、研究所で聞いた話を司には隠すことにした。眠ってしまったことを帰宅後に謝ってきた司の頭を撫でて、大丈夫だよと答えるだけで、その日は精一杯だったのだ。  せめて司にヒートが来るまでは。そう思った。まだ十歳の少年に「もうすぐ君は死ぬんだよ」などとどうして言えようか。いくら純が言葉を選ばない人間だとしても、そんなことを言えるわけがなかった。せめてあと少し。司が違和感に気づくまでは。決定的な何かがあるまでは。と、いつもの純なら決してしないような先延ばしを選んだのである。  数ヶ月後、秋も終わりを迎えようかという十月末のことだ。忙しいスケートの大会の合間を縫って、純は司と共に病院へ来ていた。 「えっと、今日は検査じゃないの?」  町医者とは違う大学病院の大きさに圧倒されたらしい司が、左隣の純を困惑顔で見上げる。 「健康診断だよ」 「けんこうしんだん……」  初めて聞いた単語だというように繰り返す司を見下ろして、純は頷いた。うん、と肯定を返し、司の手を引く。 「どうして?」 「データは十分だから経過観察に移るんだって」  嘘だった。研究の停止を告げられてから、それが再開したという話は聞いていない。永久破棄になったと告げた研究員の言葉に嘘がないなら、研究が再開するはずもないのだ。  ただし、経過観察というのは全くの嘘でもない。これは所謂、損害賠償である。研究協力の依頼を受け入れる時にスーツ姿の男が言っていた、不利益に対する補償というものだ。この程度のもので、純たちが被った研究の代償を償うことなどできはしない。だが形だけでもそういう体を作らなければならないという大人の事情が関係した結果だった。  それにこれは純たちにも益がある。研究によって重篤な不調をいつ引き起こすかもわからない状態を抱える二人には、定期的な検診が必須だったからだ。あの説明役の研究員が紹介した病院というのが気に入らないとはいえ、研究を表沙汰にするつもりがない研究所の方針を考えれば、まだ紹介を受けられただけマシだと思うしかない。  純は後手に回るしかない状況に苛立ちを抱えながらも、それを司に悟られぬように注意しつつ病院の入り口を潜った。  純の不信とは裏腹に、診察室で対面した研究所の息がかかっているという医者は、存外親身な人柄だった。にこやかな笑みを浮かべ、始終穏やかな声でゆったりと話す壮年の男。純たちの事情の一切を過不足なく把握しているはずの彼は、けれども一片たりとも憐憫を見せることなく検査結果を口にした。 「問題ありませんね」  手元の簡易的な検査結果を見ながら告げた医者は、顔を上げてにっこりと笑った。 「お二人とも至って健康です。ダイナミクス値もフェロモン数値も平常値ですよ」 「そう」 「はい。ただ一般的な番の方に多い数値に似た安定の仕方なので、その点は気をつけた方がいいかもしれませんね」  医者が世間話をするように告げる。それに首を傾げたのは純で、よくわからないと純と医者の顔を交互に見たのが司だった。 「何を気をつければいいの?」  純が問う。 「意識ですね。そもそも、番というのは互いが互いの番であるという意識が重要なんです。契約が成立していても、その部分が欠けていると無意識のうちに契約破棄をしてしまったり、繋がりが弱まって自律神経に異常をきたしたり、体調悪化を引き起こしやすくなります」  お二人は特に特殊な事例ですから、気をつけた方がいいですね。  と、医者はさらりと言った。 「純くんは、おれの番ですよ……?」  医者の言葉を受けて司が口を開く。丸椅子を二つ並べて左隣に座っている純の袖口をきゅっと握り、どこか不安そうにしていた。  番じゃないと言外に言われたのだと、そう思ったのだろう。番という繋がりがなくなれば、純と司が一緒にいるための理由がなくなる。おそらく司はそう考えている。それはある意味では正しいが、純にとっては外れとしか言いようのないものだった。 「司。僕は君のだよ。それは一生変わらない」 「……うん。おれも純くんのだよ。だから、先生の言うことはおかしいんだ」  司が純を見上げる。涙腺が弱いらしい司は、すでに泣きそうになっていた。年々輝きを増していく琥珀の瞳が涙に濡れる様は美しいと表現できるけれど、純はその涙を綺麗だとは言いたくなかった。司にはいつだって笑っていてほしいのだ。  そのとき、くすりと笑う気配がした。  二人揃って音の方へ顔を向けると、医者が微笑ましそうな目をして笑っていた。 「……何?」  純は途端に不機嫌な声で医者を問い質す。医者はそれに動じた風もなく答えた。 「いいえ。言い方が悪かったな、と。──司くん。私はお二人を番ではないと言っているわけではありませんよ」  前半は純に、後半は司に向けて声を発した医者はそのまま続ける。 「ただ、通常の番契約とは全く異なるプロセスを経たお二人には、いっそう意識的な自覚が必要だと、そう言いたかったのです。本来ならそこまで意識せずとも問題はないのですが、事情が事情ですからね」  医者は困ったような顔をした。釣られて司もへにょりと眉を八の字に下げるものだから、純は「どうしてくれるの」と医者を軽く睨んだ。早とちりしてしまったと、若干申し訳なさそうな司の頭を純はそっと撫でる。優しい手つきに反して、医者を睨む目つきは鋭いままだ。  言い分はわかった。だけどもっと言い方があったんじゃないの。  純の気持ちを過不足なく言葉にするとそれなりの長さになるが、実際に声として出たのは「ねぇ」の一言だった。  責めるようなそれを医者は軽く受け流し、けれども純の意図は理解したらしい。司に笑みを向けてまた口を開いた。 「──事実として本契約前とはいえ、お二人は確かに番です。番契約に『擬似』は成り立たないというのが私の見解ですが、たとえ正式な手順を踏んでいなくとも、フェロモンの交換を行った時点で学術的にも現実的にもそれは番契約と見做される。希少性ダイナミクスにおける本能というのは、それだけ強固なものなのです」  そうでなければ協力者は全員、番の破棄をしているはずだ。  医者は断言した。番契約が研究所の考えるようなものであるのならば、望まぬ番を得ることになったα性もΩ性も、協力が終われば早々に破棄を選ぶだろうと、医者は確信しているようだった。  確かに、と純は医者の言葉に内心頷き、司は「そうかも……」と小さく零した。  番契約がもっとずっと軽い意味合いの存在であったのなら、破棄も簡単にできるものでなければならない。たとえ互いの中に精神的、物理的な繋がりを作ることで成されるものを番関係と呼ぶのだとしても、その重みが軽いものならば婚姻届のように身体に負担もなく解消できるはずなのだ。  それができない。それこそが答えだった。 「私は、番契約にはきちんとした理解が必要だと思っています。そのために論文を書き、世界に発表し続けている。けれども世間の見識はいつまで経っても前には進んでくれません。それは、この世界に生き残っている希少性ダイナミクスを有する人間が圧倒的に少ないからです。人口のほとんどがβ性であるこの世界で、声を上げる人間は圧倒的に少ない。現状を正しく把握している人はほとんどいない。こうして君たちが苦しんでいることも、誰も知ることができない。それはあまりにも理不尽だと、私は思うのです」  だから。  医者はとびきりの悪巧みを教えるような顔をして声を落とした。片手を口許に当て、上体を少しだけ前に倒して純たちとの距離を縮める様は、まるで内緒話をしようとしている子どものような仕草である。  純は呆れたが、十一歳の司にはまだわくわく感を与えたらしい。瞳を輝かせて医者へと耳を傾けている。純くんも、と言わんばかりに腕を引かれたので、純もまた医者へと体を近づけてやった。  医者はにこりと一度笑う。 「だからお二人は生きてください。私は全力でそのサポートをします」  その瞬間、純は思わず笑った。ふはっ、と吹き出すような笑いだ。司は驚いたように純を見遣り、医者はどこか自慢げな顔をしていた。 「なにそれ」  笑いながら言った純に、医者は返した。 「自由に生きてくださればいいのです。声を上げるのも世界をひっくり返すのも、全部私がやりますので」  純は自分の中にあった不信感が吹き飛んでいくのを感じていた。おそらくはこの医者限定のものだが、この数年で形成された人間不信を一部とはいえ覆すような威力が、医者の言葉にはあったのだ。  純はその事実がなぜだか嬉しかった。高揚のまま司へ手を伸ばす。目を丸くした司の姿さえも、どうしようもなく愛おしいと思えた。無防備なその身体を引き寄せ、ぎゅっと抱き締めると、腕の中で司が顔を赤くする。  頭を撫でることは何度もあったが、純から抱き締めたことはほとんどなかった。滅多にない純からのスキンシップに司はわたわたしていたが、それさえも純は気にならなかった。 「いいよ。僕も手伝ってあげる」  医者へと向けた言葉は、誰が聞いても楽しげな声をしていて、音が弾んでいる。  この男は信用できる人間だ。  純の本能はそう告げていた。司を守るためにもこの男を逃してはならないと警鐘を鳴らしている。  だが何よりも、純たちの人生を預けるに足る男だと、そう思える人間に出会えた幸運に純は満足していた。 「ありがとうございます」  医者が笑う。差し出された手を握り返して、純はまた笑った。 「ちゃんと司を生かしてね」 「──純くん。純くんも生きるんだよ!」  間髪容れず、司が純の腕の中で声を上げた。先までの赤い顔の名残を見せながらも、怒っていますという表情をしている。  純は一瞬、何を言われたかわからなかった。彼の中には自身への関心がなかったからだ。自分の価値を無いものとして考える純にとって、司の言葉は元より考えもしなかったものである。  だが司はそれを見越したように言った。生きるだとかそういった言葉の意味を、司はまだ理解していない。自分の死が存外近いことをわかっていない。けれども何もわかっていないのに、司は核心をつくような言葉を使った。 「君たち二人で生きてくださいね」  追い打ちをかけるように医者が告げる。純はぼんやり「うん」と頷いて、もう一度司をしっかり抱き締めた。  そうしてようやく、純は司に真実を告げる覚悟ができた。先行きの不安が消えたわけではない。だが純たちを待ち受ける死の運命を、きっとこの医者は覆してくれる。そう確信したからこそできた覚悟だった。