この手を離さないで - 2/5

 十三歳。夜鷹純はその日、己のつがいに出会った。  正確に言えば、十四歳になる年の五月のことだ。大晦日の前日に生まれた純にとっては、一年の内のほとんどを十三歳という年齢で過ごす年のことである。滅多に顔を見せない両親が、純が一人で暮らしている家にやってきて言ったのだ。 「出かける準備をしなさい」  その日はスケートの練習日ではなかった。本当はもっと練習をしたかったし、前日にオーバーワークになると止められてしまったスケーティング練習の完成度に不満を抱えてもいた。けれども無理をして怪我をしては元も子もないので、渋々休息日に休むという行動をしようとしていたのである。  最低限の体力作りとストレッチを終えて、まだ昼にもならぬ残りの一日をどう過ごそうかと思い始めた頃、インターホンが鳴った。  純は両親にさえ合鍵を渡していなかった。今住んでいる家はマンションの高層階の一室で、契約をしたのは当然のように純の親だったが、管理や生活に必要な物のすべては純が準備していた。純が両親に求めていたのは、生活費とスケートをするためのクラブ費用や衣装代、遠征費等のお金関連だけだったのだ。  文句もなく言い値を払う両親に不満などなかった。お金以外に何も要求しない純のことを、両親もまた煩わしさがなくて良いと思っていたはずだ。 「お前のつがいになる子だよ」  珍しいなと思いながらも言われるがままに外出の準備をし、大人しく乗り込んだ車で連れて行かれた建物。その内部、会議室のような部屋の中、父親から小さな子どもを紹介された。  ぱちりとまあるい大きな瞳。琥珀のようにきらきらと照明を反射している目が印象的な男の子だった。陽光の下で輝く小麦のような淡い茶色の短髪をふわふわと揺らし、小さな手を膝の上で握り込んで大人用の大きな椅子にちょこんと座っている。  その子どもの両隣に座っていた男女が、純たちの入室と同時に立ち上がった。 「初めまして」 「どうも」  と、純の両親とその男女が挨拶を交わす中、純はなるほど、と納得する。  促されるまま子どもの対面に座り、両親は向かいにいる男女と同じように、純を真ん中にして着席した。  疑問に思うまでもなく、この男女は眼前の子どもの親だろう。どこか雰囲気が似ているので、純の勘違いという線もない。  ついと子どもに視線を遣れば、きゅっと引き結んだ口許をそのままに、琥珀色が返される。見るからに緊張で強張った肩をどうにかしてやりたいと思ったけれど、口下手な自分にはどうすることもできず、純はただ成り行きを見つめていた。  当事者たる純と幼子が無言のまま話は進んでいく。親同士で情報を擦り合わせ、互いに納得したのか頷き合っている。しばらくすると、外からスーツ姿の男が静かに部屋へ入ってきた。  そこでようやく、純と子どもに説明があった。  曰く、これは『希少性ダイナミクス研究協力者名簿』によって選ばれた対象者への研究協力の依頼だという。ダイナミクス──所謂第二の性別やバース性と呼ばれるα性、β性、Ω性のうち、希少性別に分類されるα性とΩ性の性質解明を目的とし、α性やΩ性の社会生活の支援を行うための研究に協力してほしいという話だった。  すでに多くの協力者により、Ω性のヒートやα性のラットを抑制する薬の開発、改善が成されているらしい。今はα性とΩ性の番関係の研究をしているそうで、番契約におけるフェロモンの変化を解析し、番契約によるα性とΩ性の結びつきの原理を解明しようとしているのだとか。  純たちにはその一環として、擬似番契約によるフェロモンの有効範囲の変化の研究への協力と、α性とΩ性が元来有する、番が居ない状態が原因とされるホルモンバランスの乱れを発端とした、軽微な体調不良の改善が見られるかどうかを計測させてほしいと依頼された。 「当然、研究協力によって体調の悪化や不利益が生じた場合は、こちらが全面的に補償いたします」  男がにこやかに笑って告げる。 「……擬似番契約って?」  純は無言で頷き、次いで聞き覚えのない単語の意味を問うた。すると簡潔に答えが返る。 「互いのフェロモンを抽出し、相手のフェロモン分泌腺に直接注入することで、番関係を擬似的に再現するものです」  正式な番関係ではないのでリスクなしに番の解除ができ、将来的な番契約には支障ありません。と、スーツ姿の男は続けた。  おそらくその言葉には、冒頭に「実験段階ではあるが」という言葉が付くのだろう。  純は、この男が一体どういった組織の人間で、何を純たちにさせようとしているのか、粗方察していた。 「……そう」  だが、それを指摘しようとは思わなかった。純たちにはその権利がなかったからだ。  ちらりと目の前の子どもを見遣れば、幼子は初対面の時よりもずっと強張った顔で座っている。おおよそスケートクラブに入会したての幼年期の子どもたちと同学年に見える男の子が、自分の状況を理解していることに純は素直に感心した。  賢い子だなと思いながら、この場においては純以上に発言権がないだろう子どものためにも口を開く。 「それって、絶対に解除しないといけないの?」  この部屋の中で、バース性を正しく理解できているのは純と子ども以外にいないだろう。純の両親はどちらもβ性であるし、子どもの親もおそらく同じだ。スーツ姿の男からもフェロモンを感じ取れないことから同様だと判断する。  この世界におけるバース性の割合は、世界人口の99%以上がβ性である。残りの1%に満たない数がα性とΩ性。その内訳はα性が五割強、Ω性が五割弱だ。これは世界人口の男女比率にほぼ一致する。  故に希少性別であるα性やΩ性が同じ空間に二人以上いる確率は極めて少ない。全体数が増えれば当然確率は増加するが、この部屋の中ではそもそも、β性以外が存在している方が珍しいくらいだ。意図して召集された純と幼子がいなければ、部屋の中にはβ性しかいなかっただろうことは、簡単に予想がつく話である。  だからこそ、バース性──特にα性とΩ性の性質を理解しているのは、本能的に自らの第二性を自覚することができる純たち以外にはいなかった。  世間では番契約を婚姻とは似て非なるものと称することがあるが、実際はもっとずっと重い。婚姻が理性によって成されるものだとすると、番契約は本能で成すものだ。好き合った人間が婚姻を通して家族になる。永遠を誓う。けれどもそれは、簡単に破棄できてしまうもので、嫌になればやめてしまえるものでもある。だが番は、一度成立すれば一生覆せない。相手のことが嫌いになっても、番関係を解除するなんてありえない話なのだ。  β性のほとんどがそこを勘違いしている。運命の番だけが特別なのではない。α性から一方的に番関係を解除できるとしても、それをしようとするα性はほぼ居ないと言っていいだろう。  番を破棄されたΩ性が二度と番を持てず、自身のフェロモンに苦しむように、番を破棄したα性も、乱れてしまったフェロモンコントロールを一生抱え続けなければならないのだ。  おそらくそれは、擬似番契約といえども同じはずだ。解除などできるはずがない。そんなことをすれば、双方の精神に多大な負担がかかり、発狂してもおかしくはない。そんなものを、このスーツの男は──国家は、純たちに課そうとしているのである。  この依頼はどれだけのα性とΩ性を巻き込んでいるのだろうか。どれだけのα性とΩ性がリスクのない番解除という言葉に騙され、頷いたのだろうか。そしてどれだけのα性とΩ性が、拒否できぬ依頼に歯を食い縛り、望まぬ番契約をすることに同意したのだろうか。  誰だって苦しみたくなどない。発狂するとわかっていて『解除』の言葉に踊らされたりはしない。依頼を拒否できぬとわかっているからこそ、結局は正式な番契約を結ばざるを得なくなっているのだ。  国家はそれを狙っている。  都市伝説じみた噂話でしか聞いたことのない、強制的番契約依頼。それが自身に降りかかるなど、純は想像もしていなかった。ダイナミクス研究を建前に、番契約を結ばせようとする国家の政策が腹立たしい。  そも、α性とΩ性には、国家から通知されるバース性に関する依頼への協力義務が発生するのだ。拒否できるのは法律上の未成年だけで、それも保護者が同意すれば当人の拒否権は実質存在しない。拒否が叶っても、一度依頼が来たα性とΩ性は成人後、ほぼ確実に再度依頼が来る。そうなれば結局拒否できず、依頼協力を通知された者はもれなく、面識もなかった相手と番契約を結ばなければならなくなる。  どのバース性であろうと関係のない自由恋愛を謳う世界が、潜在的かつ根本的には前時代的なα性とΩ性の地位的差別を行う社会。それが今の日本社会、いては世界の在り方であった。  最悪の気分だった。  我が意を得たりとほくそ笑む男の顔。さっさと同意しろとばかりにじっと純を見つめる両親の視線。困ったように笑いながらも、実際は思い通りに進まぬ現状に苛立つ幼子の親の、その忌々しげな目。仮にも少年の域を出ない子どもに向けるべき感情ではない。  純は密かにため息をついて、入室からここまでずっと立ったままでいるスーツ姿の男を見上げた。威圧したいのか何なのか、この男は優に一回り以上は歳の差がある子どもを、至近距離でずっと見下ろしている。  そんなものを意にも介さない純は別にいいのだけれど、対面の小さな子どもには随分な脅しになっているように感じてならなかった。  早く話を終わらせよう。  純がそう考えてしまうのも当然だった。 「それでどうなの。仮にも番契約なんでしょ。解消できると言われても、僕は嫌だよ」 「いえ勿論、正式な番になるという前提の上でしたら解除していただかなくても構いません。その場合は正式な番成立後に一度、検査への協力をお願いしております」  正式な番契約を結ぶことまでが研究計画の内に入っていただろうに、いったいどの口が言うのか。  純は内心呆れながら静かに頷いた。 「そう、ならそうして。──ああ、それと。擬似番契約の時点で番成立届を受理すること。正式な番契約後に協力する検査は一回だけ。それ以降の僕たちへのそっちからの干渉は全部、たとえ研究協力だったとしても許可しないから」  できるよね。と訊けば、男は若干苦い顔をしながらも頷いた。  研究協力が義務だとしても、一応は形だけとはいえ拒否権のあるものなのだ。条件をつける権利くらいはあって然るべきである。無論、これまでそんな条件を突きつけてきた人間などほとんどいなかっただろうが、そんなことは純の知ったことではない。十三歳の少年とまだ二桁にも満たないだろう子どもに無理を強いるのだ。それくらいの反撃はしてやらねば気が済まない。  何より、この子どもは純の番になるのだ。番を大切にするのは、α性やΩ性にとっては至極当然のことである。番契約が魂の繋がりである以上、番はもう一人の自分と言ってもよいくらいなのだから。ただ、番う前からここまで肩入れしてしまうのは、正直おかしなことではある。元来他人への興味が薄い傾向にある純が、会ったばかりの子どもをこれほど気にかけてしまっている。端的に言えば、気に入っているのだ。  どうしてそう思うのか、今の純にはわからない。ただ直感がそれを無視してはいけないと言うので、純は後に理由がわかったときによくやったと自身を褒め称えることになる、初対面の子どもとの即日の番契約を認めさせ、他者からの干渉を排除するという、百点満点の正解を叩き出したのだった。  惜しむらくは、スーツ姿の男が研究協力依頼について意図的に重要な情報を隠していたこと、そして幼子の親の非常識さに気づけなかったことである。  わかってさえいればきっと回避できただろう未来が、この瞬間、確定してしまったのだ。  その日のうちに、擬似番契約が行われた。純が連れてこられた建物は、研究施設内にある応接棟と呼ばれる場所だったらしい。訪問者の対応や対外的な説明をするための資料や設備等が整った建物で、研究依頼の説明は通常この応接棟で行われるのだとか。  依頼への同意を得てすぐに研究協力へと移行することで、協力者に逃げられないようにしようとする魂胆を隠せていない。  とは言え、純に逃げる気など毛頭なかったので、擬似番契約自体は速やかに実行された。相手の子どもも嫌がる様子は見せず、純と二人、ただただ無言で大人しく首元に注射針を刺されたのである。  体内に自分のものとは違うフェロモンが注入される感覚は、何とも形容し難かった。心臓の奥、どことも言えぬ場所に空いたうろが、緩やかに埋まっていく感覚とでも言うのだろうか。とかく、足りなかったものが埋まるような、常に抱えていた渇望が満たされるような、そんな不思議な感覚がした。  もしかすると、同じような感覚を幼子も得ていたのかもしれない。注射針が抜かれてすぐ、琥珀色の瞳をぱちりと瞬いて不思議そうに純を見上げていた。  その後は軽い検査をし、特に体調の変化等が見られないことを確認されると、残っていたらしい諸々の手続きを終え、次回の定期検査についての話をされて解散となった。  施設から外に出された純は、傍らの幼子と手を繋いでいた。会議室でのスーツ姿の男との話で、すでに必要書類──研究協力への同意書、特別番成立届、婚姻届──への直筆サインや保護者のサインは終わっている。右隣の子どもも、拙い文字で『明浦路司』と、彼の父が漢字表記でメモに書いた自身の名前を真似していた。 「帰ろうか」  右下の小麦色を見下ろして声をかける。番成立届と婚姻届の提出および受理は、施設内に併設された出張役所ですでに終わっていた。法律上、番成立届の提出には婚姻届の提出も必須となっているので、純とこの司という名前らしい子どもは、すでに法律上の婚姻関係にある。  本来は、女性なら十六歳、男性は十八歳でなければ保護者の同意があっても結婚できないのだが、これは実質β性に限る話だ。希少性別であるα性とΩ性における番関係では例外が存在していた。正式な番契約を終えたα性とΩ性は、自身の番相手に限り、保護者の同意があれば未成年でも年齢に関係なく結婚が可能なのだ。  またこれは一般常識の範囲内だが、番契約はα性のラットとΩ性のヒートが来ていない状況では成立しない。初ヒートは基本的に十五歳前後に起こるものであり、二桁にもならない年齢の幼子には番契約など土台無理な話だった。  加えてα性にも、ヒート時のフェロモンの影響を受けるようになる時期というものが存在する。これもまた、個人差はあれど十五歳前後である。それ以前からフェロモン自体は感じ取れる者もいるのだが、ヒートに誘発されるラットは、ヒート時のフェロモンに影響を受けない年齢のα性には発生しない現象でもあった。  純は今までフェロモンを感じたことはあれど、突発的なヒートを起こしたΩ性を前にしてもラットを誘発したことはなかった。  つまり、どうしたって純と子どもの二人が今の段階で番になることはできないのだ。  そこで登場するのが『特別番成立届』である。通常の『番成立届』とは別に存在するそれは、ほとんど使用されない書類でもある。その使用目的は、『運命の番』と呼ばれるα性とΩ性のカップルが、Ω性の初ヒート前やラットが引き起こされない年齢のα性に出会った場合における、番契約成立の事前認可。  ただ、実際にそのような状況で書類提出がされたことはないらしい。それでもそんな書類があるのは、『運命の番』がそれだけ重要視されているからだ。  出会ってしまえば他のα性やΩ性と番うことはできなくなるのだと言われている、究極の魂の片割れ。無理に引き離し、別の者と番関係を結ばせようものならたちまち死んでしまうほど。その代わりに、運命の番から生まれる子どもは、九割の確率でα性もしくはΩ性である。  通常、β性同士やβ性とΩ性、α性とβ性のカップルから生まれる子どもの99%がβ性だ。運命ではない通常の番から生まれてくる子どもがα性かΩ性である確率は一割。比較するまでもなく破格の数値だった。希少性別であるα性とΩ性の人口割合の増加を望む国家が、その数値に目を付けないわけがない。  一般的に天才と言われる人のほとんどがα性であり、α性の人間であるというだけで社会的地位が高かった時代すらある。その感覚が抜け切らぬ現在、世界に対する国家の発言権は、如何にα性を多く有しているかに左右される。そして、少子化による国の人口減少を問題視する風潮もあり、男女の性別を問わず子を産むことのできるΩ性を求める声も少なくない。その結果がα性やΩ性に番契約を結ぶことを推奨、もしくは強要する国家の政策である。  日本国も、少子化対策と国家の発言権強化の観点から、α性とΩ性の積極的な番契約を推奨している。その最たるものが、番成立届と同時に提出を義務化した婚姻届だ。これは、α性とΩ性カップルの結婚は、婚姻届だけでなく番成立届が必要ということでもある。番契約を結ばない状態での結婚が、α性とΩ性のカップルに限り認められていないのだ。  当然、正式な番契約前でも特定の機関の認可および保護者の同意により、番関係にないα性とΩ性の将来的な番成立を前提として、事前に番契約の関係性があると認定する『特別番成立届』も、同じ思惑から制定された政策の一種である。  純たちは今回、その書類にサインをした。想定される使い方とは全く違う使用方法を咎める声は上がらなかった。研究施設ではこのような利用がしばしば起こっていたからであり、番成立届を受理しろという要求があっさり通った理由を純が察した瞬間でもある。  未成年であっても結婚すれば成年と見做されるので、この時点を以て純と司は成年──所謂大人として社会から見られることとなり、純と司は夫婦として、同時に研究協力の一環として同居しなければならない。  そも、一緒に住まなければ、司の行く宛がなかったのだ。  施設を出た時にはすでに、純の親どころか司の親もいなかった。純の方は、研究施設へ移動する際に「先に帰る」と素っ気ない言葉があったが、司の方は全くの無連絡である。施設の人間が言うには、司の分の研究協力報酬の受け取り手続きだけ済ませて帰ったらしい。純の分は彼自身が手続きをしたのだが、その時に司に訊いたところ、司は通帳や銀行口座の存在をよくわかっていなかった。  ああ、なるほど。 「君、売られたんだね」  報酬受け取り手続きを終えたばかりの施設の一室。ぽつりと零した純の言葉に、司は瞳を揺らした。けれども瞬きのうちにそれを覆い隠して、平気そうにへらりと笑ったのだ。 「うん」  短くそう応えた司の声は、隠し切れなかったのだろう悲しみに震えていた。  半ば拒否権のない研究協力だが、協力者には報酬金が支払われる。治験バイトと同じようなものだ。検査を含む協力一回につき数十万円の世界で、この額が治験などより格段に多いのが特徴だった。特に初回報酬金の額は、協力内容にもよるが、大抵二百万円から五百万円が普通らしい。この報酬をちらつかせて、協力に渋る者を陥落させることも想定しているが故の額の大きさだろう。  そうなると当然、お金に目が眩む人間も出てくる。それが今回は司の両親だったというわけだ。  それどころか初回以外の報酬金すら狙い、父母のどちらかの口座に入金されるように、司に無断で受け取り手続きをしている。司にこの話をしていないことから、純の予想はほぼ確実に合っているだろう。  さらに言えば、司自身に彼の服や生活用品を詰めた鞄を持たせた上で、当の司を置いて帰っている。司を捨てていくつもりだったと言外に示す行動であることは明白だ。純でなくともわかることなのだから、賢い司がわからないわけがなかった。  その証拠に、司は困ったように眉を下げるばかりで、両親が逃げた先であろう実家の住所を言わなかった。ただただ不安そうに純を見上げていたのだ。  だからこそ、純は自分にできる精一杯の優しい声を心がけて、小麦色の髪を見下ろして言った。 「帰ろうか」  純としては微笑みさえ浮かべてみせた台詞だったが、実際のところはこれといった表情のないままの言葉だった。  返事を聞くこともなく、タクシーを呼ぶために携帯を取り出した純を、司は静かに見上げる。真顔にしか見えない年上の男の子を、じっと見つめる視線には恐怖らしきものは見えなかった。むしろ先ほどまでの不安はどこへ行ったのか、どことなくきらきらとした目で純を見つめている。その視線に、純は微かに居心地の悪さを覚えたものだ。 「……何?」 「えっとね、きれいなお兄ちゃん。お兄ちゃんはおれと一緒にいてくれるの?」  期待に満ちた言葉だった。  繋いでいる手が、きゅっと強く握られる。小さな体でも驚くほど力強く、純から離れたくないと主張していた。  それはきっと、親元へ帰れぬことを察しているからこその行動だった。純以外の誰も頼る人間がいないからこその言葉だった。  けれども、純はそれでいいと思った。結果的に縋る相手が純しかいなかったのだとしても、司は純を選んだ。その事実だけで、なぜだかどうしようもなく心が浮き立った。  その瞬間、純はその日初めて笑みを見せた。口角を小さく上げるだけのささやかな微笑である。下から見上げていた司でさえ見逃してしまいそうなほど仄かなもの。だが確かに、それは笑顔と呼ばれるものだった。 「そうだね。家族だから、ずっと一緒だよ」 「かぞく……」  司が呆けたように呟いた。純の口からありえない言葉を聞いたとばかりに目を丸くしている。そうしてしばらく言い淀み、視線を足元に向けながらおずおずと訊ねてきた。 「……お兄ちゃんは、おれの家族になってくれるの? お父さんやお母さんみたいに、おれのこといらなくなったりしない?」 「しないよ。だって君は僕の大切な子だもの。仮に嫌いになったとしても離れたりしない」 「ほんとうに?」 「うん、本当。むしろ君の方こそ、僕から離れたりしないでね」  何度も聞き返す司に純は根気よく応えた。普段ならすぐに苛立ち、会話を続ける努力もしない純が、司の言葉だけは無視もせずに耳を傾けている。それがどれほど珍しく凄いことなのか、当然司は知らない。純が一等司に心を砕いているという事実は、今、純だけが気づいていることだった。  大切な子。大切なΩ。大事にしないといけないから。言葉を惜しんではいけないから。悲しませてはいけないから。だから純は、言葉を尽くした。どうしてこんなに司を大切に思うのか、やはりわからないままだったけれども、自分らしくないこの行動を、純は少しもおかしいとは思わなかった。  純から自然と溢れ出す司への愛情と呼ぶべきものを、司は正しく感じ取ったらしい。たちまち花咲くような笑みを浮かべた。太陽が雲の隙間から顔を出したような、そんな眩しくも暖かい笑みだった。 「うん! おれ、ぜったいぜったい、お兄ちゃんから離れないよ。ずっと一緒にいようね!」  今にも抱きつきそうな勢いの司の頭を、純は慣れない手つきで撫ぜる。純が「約束だよ」と零せば、司は「約束!」と元気いっぱいに小指を差し出して笑った。  それが、純と司の出会いの一部始終である。