この手を離さないで - 3/5

 さて、一般的というには非日常の出会いから丸二年の五月。純は通信制の高校に進学し、司は小学二年生になった。  この二年のことを詳細に語るには、あまりにも多くの問題が二人に降りかかったがために、どこから語るべきかを悩まねばなるまい。  とは言え、特筆すべきはおそらく、純の両親についてである。  あの日。研究施設を出てタクシーに乗り、司の手を引いて家に帰った純は、両親からの追加の連絡を携帯で受け取った。メール一通に必要な情報をすべて詰め込んだ、と言うには酷く簡潔に、要約すれば「あとのことは自分でなんとかしろ」という文面が携帯の画面に映し出されていたのだ。司に留守を任せて近場のATMに通帳記入をしに行けば、通帳を彩る八桁の数字。  純はため息をついたものだ。  両親の言い分としては、結婚をして成年と認められたのだから、今後の生活は自分でどうにかすべき、ということらしい。それでも一応、最低限高校を卒業するまでに必要な学費や生活費、スケートの必要経費を一括入金してくるくらいの愛情はあったようだ。  純一人ならそれで十分生きていける程度のお金が通帳に記されている。スケートに関しても憂うことはないような金額だ。加えて純には、研究協力に対する報酬がある。これで生活できないと言うような人間は、根本的に散財癖があるとしか思えない。  だが、純にとって両親から受け取ったお金は十分ではなかった。 「純くん、だいじょうぶ?」  隣を見下ろすと、心配げに純を見上げる琥珀色。つい先ほど自己紹介を終えたばかりの相手、司がソファーにちょこんと座っている。 「うん。大丈夫。心配しなくていい」  答えながら、大丈夫ではないな、と純は思っていた。  なにも純は、自身の親の行動を咎めているわけでも、不満に思っているわけでもない。子を持つ親としての常識から考えれば、非常識かつ無関心が過ぎる対応ではある。だがこれまで生活に困らないだけのお金を渡し、なおかつスケートという金のかかる習い事を文句もなくさせてくれていた。今も「あとは自分でどうにかしろ」と突き放しはしたが、純が成人年齢になるまでは十分以上に生きていけるだけのお金を振り込んでいる。渋ることもなくだ。  そんな両親に対して、元来淡白な関係を築いてきた純がこれ以上を求めようなどと思うわけもない。純一人であれば全く問題もなく「ふーん」くらいの感想でスケートリンクに向かっていたかもしれない。  しかし現実は、純の隣には司がいる。それも養育の責務を負っているはずの親に、本来司が得るべきお金さえも奪い取られた小さな子どもが。  純一人でなら十分すぎるお金も、司と二人となれば不十分だったのだ。  けれども、それを純の両親に訴えるというのもおかしな話である。純の両親が養育すべき相手は純だけであり、司は関係がない。そも、司が全くの無一文で援助も得られないということを純の両親が知っているかも定かではない。仮に知っていたとしても、手を差し伸べる義務が発生するわけでもない。  はてさて一体どうしたものか。純は頭を悩ませた。とかく早急にスポンサーを獲るしかないという結論だけが出る。元より声はかかっていたのだ。気乗りしなかっただけで。いくつかの声をかけられた企業の中から、純の気質と現状打破に役立つ所を選ばなければならない。あまりこちらに干渉されても困るので、選出は容易ではないだろう。正直な話、純はスケート以外のことを考えるのが苦手だ。できればスケートだけをして生きていたいのだ。大切なものを抱え込めるだけの技量もない。陸の上の自分の無価値さを純は誰よりも知っていた。 「……純くん?」  司の不安そうな顔。隣に並んで腰掛けているソファーで、居心地が悪そうにしている。もしかして自分はやはり邪魔なのではないか、そんなふうに考えているのかもしれない。  そんなことはない。断じて司が邪魔ということはないのだ。  司にお金がなくたって、純に司を放り出すつもりなど毛頭なかった。ただ、彼を満足に生活させてやれない自分が情けないだけなのだ。こういうとき、自分の未熟さと不甲斐なさと役立たずさで息苦しくなる。陸はやはり自分には向いていないと、純はそう思った。 「大丈夫だよ。ただ、僕も捨てられたようなものだと、そう思っただけ」  お揃いだね。そんなふうに笑って言った。純の中では笑ったつもりだった。  だが司の目には、初めて会った時からこれといった感情の変化を見せない顔が映るだけである。その下ろされた前髪の隙間から、凛々しさのある美しい眉がわずかばかり八の字に下がるのを、司は純が悲しんでいると解釈した。  瞬間、司の目から涙が溢れた。真珠のように丸く透明な雫が、まろい頬を転がり落ちていく。  純は目を見張った。 「どうして泣くの」 「……っ、だ、だって……じゅんくんが」  しゃくり上げる司は、それ以上言葉を紡げなくなる。苦しげな嗚咽が繰り返され、もはや何を言いたいのかわからない呻き声ばかりが、彼の喉を震わせていた。  司だって自分がなぜ泣いているのかわからなかった。悲しいということはわかる。けれども純が可哀想だと思っているわけでもない。悲しそうにする純の姿に、ただ悲しくなってきただけだということしかわからないのだ。  きっとそれは、親に捨てられたという事実を司だけのものにしなかった純の優しさに対する感情だった。嬉しいと言い表すには不適格な、似て非なるもの。いつかの将来、司はこの感情を『愛しさ』と名付ける。今はまだ名も無き感情である。 「僕は独りにはならないよ。君が一緒にいてくれるんでしょう?」  純は、司が何を言いたいのか理解などしていなかった。憶測を元に言葉を発したわけでもない。だが「捨てられた」と口にした純を見て泣いた司に、ただ事実を返しただけだ。  そんな純の言葉に、司は何度も頷いた。小さな手を伸ばして純の胴に腕を回し、それでも結局は回り切らなかった手で、純の脇腹付近の服をぎゅっと握り締めた。ほとんどお腹部分に顔を埋めて、涙に濡れた声で「一緒にいる」と何度も言う。 「純くん、おれはずっと純くんのだよ」  番の何たるかもよくわかっていないだろう年齢の子どもが、核心をつくような言葉を零す。おそらくは本能の部分で察しているものが、形になって零れ落ちた瞬間だった。  純は司を抱き締め返して、その小麦色の旋毛に口付けを贈るように身を屈めた。 「そうだね。僕は君のものだよ」  だから一緒に生きて。  囁くような声が司に届いたかどうかはわからなかった。司が小さく頷いたように感じたのは、きっと純の気のせいだろう。  とまぁそんなことがあって、今の二人の生活は始まった。その後も紆余曲折があった上に、結局司は「夜鷹」の名字を名乗るわけにもいかなくなって、対外的には旧姓の「明浦路」で通している。  それもこれも、司のために雇ったシッターが元々住んでいた家で盗みを働いたり、その時に司に怪我をさせたりしたせいだ。  当時はまだジュニア選手になったばかりだった純だが、それでもすでにその戦歴の輝かしさは燦然さんぜんとしていた。そんな純のことを雇ったシッターが知っていたということも問題だったようだ。熱心な純のファンだったらしいそのシッターは、司が「夜鷹」を名乗っていることでその関係を察し、司を排除しようとしたのだ。  醜い嫉妬だった。司は申し訳なさそうにしていたが、悪いのは勝手に司を妬み、敵視したシッターの方である。事件が発覚してから、純はそのシッターを警察に突き出し、引っ越しの準備をすることとなった。近場に引っ越すわけにもいかないだろうと、クラブの移籍も兼ねて県を跨いだのだ。  元より名古屋から横浜まで出てきたに等しいものだった司が、純に着いていくことに反論などあるはずもない。幼稚園や保育所に空きがなかったためにシッターを雇っていたことだけが唯一の幸いだった。  結果、純は軽い人間不信に陥る。元来警戒心が強い方の人間であるが故に人間関係の構築に苦心するたちであった純は、この事件をきっかけに大人への信用や信頼、期待を抱けなくなった。所属クラブには折を見て研究協力についてや、その延長戦で結婚をしたことを話そうと考えていたが、すっかりその意欲を失ってしまったのである。  訊かれなければ話す必要もない、という方向にシフトチェンジした意思のまま、純は司との出会いから二年経った今も、結婚について話していない。書類上での記入必須項目がある場合は既婚に丸をつけているのだが、それを指摘されたこともないのでスケート関係者が純の結婚について知っているのかどうかもわからない。  それに今現在の問題はそこではなかった。 「……ねぇ司」 「やだ」 「司、お願いだよ」 「やだって言ってる!」  司を説得できないのだ。  純は一年ごとにスケートの指導者コーチを変えていた。その習慣は今でも変わっていない。司に会ってすぐ、事件のこともあったがそれでも予定通りにコーチを変えた時は、何の問題もなかった。引っ越しは司のためでもあったからだ。だが今回は、司を連れて引っ越すわけにもいかない。純はそう思って司に「君は来なくていい」と言った。  その答えが、司の駄々である。 「いやだ! おれは純くんのごはんがいい! 絶対絶対、一緒に行くから!!」  琥珀の瞳を涙で濡らしながら、司は純に訴える。泣いてたまるかと堪えている様子はあるが、その努力も虚しく、大粒の涙が司の頬を伝い落ちていく。  純は困り果てていた。 「友達はどうするの。もう会えないよ」 「そんなの純くんのほうが大事だよ! なんでわかってくれないの!?」  とうとう司は声を上げて泣いた。純の作った料理を食べて、純と一緒の家で過ごし、純と同じ部屋で寝て、純と一緒に学校に行くのだと、嗚咽でえぐえぐ言いながら主張する。  対して純は、友達は大事にするべきだし、一年ごとの引っ越しは司に負担がかかる。食事は作ったものを配達してくれるサービスがあるし、家事は司だけでも十分だけど、司の負担にならないように代行サービスを利用するつもりだ。前みたいに変な人が来ないように、信頼できるところを探したから問題ない、と説得し続けていた。  そのすべてに司は首を横に振っている。料理は純でないと駄目だと、そう言って聞かないのだ。  そんなに純の料理がいいのか。  確かに、純は司のために料理をしてきた。事件後、改めてシッターを雇う気になれなかったからだ。  だが料理歴で言えば一年半ほど。家に他人を入れることすら不快だった当時、やったこともない家事を熟そうとして悉く失敗した純である。掃除や洗濯は家の手伝いをしていたらしい司の仕事となり、唯一火を扱う料理だけが、小さな子どもに火を使わせるのは危ないからという理由で、純の役割となったわけだ。けれども、陸上での生活を満足にできない自覚のある純の料理は、お世辞にも上手とは言えない。  事件から一年以上が経って、ようやく純の気持ちが「シッターは遠慮したいが家事代行サービスくらいなら使ってもいい」程度に落ち着いてきたこともあり、時期的にもクラブを移籍する頃合いだったので丁度いいと司に話をしてみれば、猛烈な反対を喰らった。  なぜだと、純は頭を抱えたい気持ちだった。  実を言えば、案外料理は楽しかった。司のために始めたそれに煩わしさを感じなかったのだ。  食事など必要な栄養素の摂取以上の理由などなかったはずなのに。笑顔で美味しいと言ってくれる司にすっかり絆され、最近ではかなり少量とはいえ、司と一緒に食事をする日もあったりする。  司に出会うまでの純ならありえなかったことだ。  純だって、司と離れたくなどない。できることならずっと一緒にいたいと思っている。そう約束もした。違えるつもりもない。  そう思ってはいても、司には司の人生がある。司がやりたいことを悩まずできるように、遠慮などさせないように、司の人生が幸福であるようにと、純は願い続けてきた。そのために必要なのが何かも考えて、司だけでなく彼の生きる環境ごと、大切にしようと思ったのだ。  スケートをすることは純の都合だ。クラブを変え、コーチを変え、そのために引っ越すこともすべて、純のためのものだ。言ってしまえば、純の生き方に司を巻き込んでいるのである。だからこそ、これ以上巻き込まないようにと提案したことを、司は強く否定している。  どうして。  純はわからなかった。 「今はよくても後悔するよ」  司は陸での生き方が上手い。友人は多く、学校でも人気者なのだろう。帰宅後に純へ話してくれる楽しかったことの中で、友人の話が出ない日はなかった。 「しないもん」  それでも司は頷かない。かと言って「もういい」と投げ出すこともない。言葉を尽くして自分の気持ちを純へと伝えようとしていた。嗚咽のせいで明確な形にならない言の葉を、たどたどしく紡いでいくのだ。 「じゅ、純くんだけ。……ひっく、お、おれには、純くんだけだよ……」  ──わかってよ。  司の声がリビングに落ちる。小さな声がぽとりと。涙に濡れた琥珀がすっと純を見上げ、その瞳が雄弁に語っていた。  約束をした。ずっと一緒だと。純は司のもので、司は純のものだと。たった二人の家族になったのだと。  純が司を大切に思うように、司も純が大切なのだと、純は今さら気がついた。純にとっての情と呼べるものは、常に一方通行のものだったからそんなことにも気づけなかったのだ。純が司を大切に思えば思うほど、同じだけの『大切』が司から返されているのだと、ようやく気づけた。 「……そう」  純は微笑した。二年間一緒に暮らしている司でもよく見なければわからないような、誤差に等しい笑みだった。けれども確かに、純は笑っていた。 「なら、一緒に行こう。君が後悔してもね」  初めて会ったあの日のように、純は司の頭に手を伸ばす。撫ぜる手つきはこの二年で上達したが、それでもどこか拙い動きだった。  平熱が他人より高いらしい司の温かさが手のひらから伝わってくる。対照的に体温の低い自身の手がわずかに温められるのが心地よかった。  司は一瞬きょとんとして、それから純の言葉を理解したようである。綻ぶように笑って、泣いていたのが嘘のように元気よく返事をした。 「うん!」  満面の笑みが太陽のようだと、純は笑い返しながらそう思った。  こうして、純のスケートのための生活に司の存在が追加された。